えむえむっ!3 松野秋鳴 第一章 そして彼女はやってきた  朝の気配。瞼《まぶた》を開けようとした俺——砂戸太郎《さどたろう》は、窓から差し込む陽光のまぶしさに顔をしかめる。 「ふ……ん……」  瞼を開けるのは諦め、完璧な二度寝態勢。いまは夏休みという名のありがたい長期休暇に入っているので、無理に朝早く起きる必要はない。俺はしばし惰眠をむさぼることにした。至福の瞬間である。  ぎゅっと抱き枕をかかえ、再び眠りの世界へ。妙に抱き心地のいい抱き枕に左足を絡ませ、ふわっとやわらかい部分に顔面をぐりぐり押しつけ——  ん? 待てよ。  俺って抱き枕なんか持ってたか?  答えはノーである。そんなもの持ってないし使ったこともない。  訝《いぶか》しく思いながら、重い瞼を開ける。  と。 「——ぶっ!?」  俺が抱き枕と思って抱きしめていたもの——それは、小柄な女性だった。  中学生か下手をしたら小学生に見えてしまいそうな、あどけない顔立ちをした女性。俺はその女性の太もも辺りに自分の左足を獲物を捕まえるタコの触手のように絡ませ、その細い腰に両腕を回し、そして顔立ちからは想像できないほど豊かな二つのふくらみに顔面をぐりぐりと押しつけていたのだった。  俺は慌ててその女性から離れ、ベッドの上で上半身を起こしながら怒鳴る。 「あ、姉貴っ! また俺のベッドに潜り込みやがったな!?」  そのスモールサイズな女性の名は砂戸|静香《しずか》。俺の姉貴であった。  超がつくほどのブラコンである姉貴は、何度注意しても怒っても叱ってもいつもいつも俺のベッドに忍び込んでくるのだ。本当に迷惑なお姉ちゃんである。 「……んあ……太郎ちゃん……」  姉貴はロリータな外見に不釣り合いな色香をまといながら、顔を赤く上気させている。両腕を投げ出すような格好でベッドに横になり、とろんと酔っぱらってるみたいな瞳で俺を見上げてくる姉貴は——なぜか水色の水着を着ていた。肌の露出の多いビキニタイプの水着を。 「げ、げぶっ!? 姉貴、なんで水着なんか着てやがるんだっ!?」  驚きながら叫ぶと、姉貴はにぱっと笑みを浮かべ、 「えへっ。静香お姉ちゃん、サマーバージョンだよぉ」 「なにがサマーバージョンだっ! アホかっ!」 「そんなことより、太郎ちゃん……」  姉貴は顔を上気させたまま上半身を起こし、白くて細い両腕を俺の首に絡ませてくる。 「さっき、お姉ちゃんの体をぎゅっと抱きしめてくれたよね……しかも、わたしのおっぱいにぐりぐり顔を押しつけて……」 「あれはただ寝ぼけてただけだっ!」 「わたしの水着を剥ぎ取ろうとして……」 「それはしてねえよっ!」 「うふっ。照れなくていいのに。……わたし、あんなことされたら我慢できなくなっちゃうよぉ……体の火照りがノンストップだよぉ……」  うっとりと言いながら、姉貴は俺に抱きついてくる。 「お、おい! こらっ!」 「太郎ちゃん……わたしに種付けしてください……」 「なに言ってんの!? そのセリフはアウトかセーフかでいえば完全にアウトだからね!」 「アウトかセーフ……太郎ちゃんは、わたしとエロティック野球拳がしたいの……?」 「エロティック野球拳ってなんだよ!? いきなり脈絡のないことを言うなっ! つーか野球拳は基本的にエロティックですから!」 「エロティック野球拳は普通の野球拳よりもさらにエロティックなんだよぉ。まずはお互い全裸の状態からはじめるの」 「それはもはや野球拳として成立してないだろ! ——って、こら! 離れろ!」  いつになく強引な姉貴は俺をベッドに押し倒す。ちょ、ちょっと…… 「今日は邪魔者も来ないはずだし……最後までいっちゃおうよ……」 「アホなことを……ん? 邪魔者も来ない?」  そういえば、いつもだったらこの辺りで超子煩悩な母さんが乱入してくるはず。だが、一向にその気配はない。いったいどうしたのだろうか。 「あ、姉貴……母さんになんかしたのか?」 「え? ううん、なんにもしてないよぉ」  と、無邪気な顔で首を横に振る姉貴。  そのときだった。  どごおおおおんっ! と破壊音のような音を立てながらドアが開いた。 「——っ!?」  突進するようにドアを開け、部屋の中に入ってきたのは——  鉛色《なまりいろ》の巨大な芋虫だった。  いや、よく見ると違う。芋虫ではない。それは俺の母親である砂戸智子《さどともこ》だった。  ドアの前で力尽きたように横たわる母さんは、なぜか全身に鎖を巻き付けていた。灰色の太い鎖を肩辺りから足首ぐらいまでぐるぐるに、シルエットが芋虫みたいに見えるほどに巻き付け、顔面から異常なほどに汗を掻きながら、 「し、しし、静香さん……」  と、低い声で姉貴の名を呼ぶ。 「こ、こここ、これは……なんのマネですか……?」  基本的に穏やかな顔立ちをしている母さんが、いまは死地から還ってきた兵士のように憔悴《しょうすい》した表情をしていた。ぜーぜー息を荒げながら、 「あ、朝目が覚めたら、体中に鎖が巻き付けてあって……手足がほとんど動かせない状態で……」 「姉貴……」  俺はジト目で姉貴を見やる。 「や、やだなあ、お母さん。わたしは知らないよぉ。いつもいつも太郎ちゃんとのラブラブタイムを邪魔するお母さんにあまりにもイラついて、寝ているあいだに体に鎖を巻き付けて動けなくしたとか、そんなこと絶対にするわけないんだもん。うふっ」 「…………」 「…………」  姉貴、なんてことを……つーかその鎖はどこで入手したのですか? 「でも、お母さん……その状態でここまで来るなんて、敵ながらあっぱれだよ。あっぱれお母さん大先生だよ」  母さんの仕事部屋兼寝室は一階にある。本当に、あんな姿でよくここまで来れたな。どうやって階段を上がったのだろうか。  姉貴は余裕の表情で母さんを見下ろしながら、 「だけどそんな状態じゃあ、わたしと太郎ちゃんのラブラブタイムを邪魔することはできないよね。そこでおとなしく、わたしと太郎ちゃんが全裸で絡み合う姿を見物してればいいんだよ」 「な……ぜ、全裸で絡み合うですって……」  母さんの顔が真っ青になる。 「そんなことするわけねえだろっ! 馬鹿か!」 「太郎ちゃん……じゃあ、はじめよっか……?」 「なにもはじめねえ! 永久にはじまらねえよっ! お、おいこらっ! 恥ずかしそうな顔をしながら水着を脱ごうとするんじゃねえ!」  と—— 「そんなこと……させませんよ……」  低く、母さんがつぶやく。 「絶対に……させるもんですか……」  母さんはぶわっと体を起こし、鎖を全身に巻き付けたまま立ち上がった。 「ぬおおおおおお……」  母さんの顔が真っ赤に染まる。額に血管が浮き出る。ぎしぎしと音を鳴らす灰色の鎖。その異様なほど気合いの入った姿に目を離せなくなる俺と姉貴。そして。 「ぬおおおお……はいやあああああああああああああああああああ————っっっ!」  魂の絶叫とともに、鎖が千切れて弾け飛んだ。えええええええっ!? 「ほ、ほえ——!?」  姉貴の口から驚愕の声が漏れる。  部屋に散乱する鎖の残骸。母さんはバンザイをするような格好で、両手両足を大きく広げている。つまり母さんは自分の筋力だけで鎖を引きちぎったというわけで……そ、そんなことが人類に可能なんですか?  さすがの姉貴も大きく目を見開きながら、 「そんな……」 「ふふふ……愛の力に不可能はありません……」  汗まみれになりながら、にやりと不敵な笑みを浮かべる母さん。いや……そんな愛の力だとかで、人間の限界を易々と超えないでください…… 「静香さん、やってくれましたね……やっちゃってくれましたね……」 「あ、あわわわわわわ……」  怯えた表情を浮かべる姉貴。  母さんは床に落ちている千切れた鎖を拾った。その鎖を大きく振りかぶり、 「制裁は……受けてもらいますううううううううううううう————っっ!」  鎖を鞭のようにしならせ、姉貴に向かって振るった。 「——っ!? んきゃああああああああ——っ!」  姉貴は咄嗟に頭をかがめ、その鎖の鞭を避ける——えっ?  姉貴という的を外した鎖の鞭は、その背後にいた俺に向かって……えええええっ! 「の……のげええええええええええええええええええええ————っ!?」  ギュルルルルと俺の首に巻き付く灰色の鎖。血管や気道を絞めるどころか首の骨が折れてしまいそうなほどの勢いで鎖が——く、鎖がうはあぁあっ! 「あああああああああっ!? た、太郎ちゃんが白目をむきながら口から大量の泡を……そして全身が変な痙攣を……」 「えええええええええっ!? た、大変です! とりあえず鎖を外さないと……」 「お、お母さん引っ張っちゃダメだよ! ふえええ、さらに鎖が首に食い込んで……太郎ちゃん、しっかりして!」 「し、静香さん、そんなに激しく太郎さんの体を揺らすと、鎖がさらに……ああああ、たたた、太郎さんの顔面が見たこともない色に……」 「お、おげ……おげおげぶぅ……」  夏のある日、俺は臨死体験をした。  昼飯を食べたあと、制服に着替えた俺は家から出た。  家の近くの駅から電車に乗り、桜守《さくらもり》駅で降りる。そこから十分ほど歩いたところに、俺の通う私立桜守高校はあった。  八月の中旬——季節は夏である。  今年の夏は暑かった。あまりにも暑かった。熱で溶けた脳みそが耳から垂れそうなぐらいに暑かった。 「あちぃ……マジで異様なほどにあちぃ……」  こんな暑い日は、クーラーの効いた自分の部屋でごろごろしていたい。心の底からそう思うのだが、それはできなかった。なぜなら部活に出ないといけないから。  第二ボランティア部。俺が所属する部活の名前である。その活動内容は桜守高校に通う生徒たちの願いごとを叶えること。だが、いろいろと問題のあるその部活に願いごとをしにくる生徒というのはほぼ皆無だった。  それなのに、部活の部長は部員たちに——おもに俺に——ほぼ毎日部活に出てくることを強要している。夏休みになってもそれは変わらず、日曜以外の日は必ず部活に出なければいけないことになっていた。本当に迷惑な話である。  うんざりした顔で校門を抜け、部室棟に向かう。  足を止める。目の前には、第二ボランティア部の部室の扉があった 「ちわっす……」  小さな声で言いながら扉を開けると——  そこには、天女のように美しい少女が立っていた。  華奢な両肩を覆う亜麻色の髪は光の粉をまぶしたように煌《きら》めき、長い睫毛に彩られた二重《ふたえ》の瞳はなにかの魔法ですかというほど他者を魅了する。窓から差し込む夏の日差しを反射する肌はまぶしいほど白く、一片の曇りもなく透き通っていた。細い眉、すらっと通った鼻筋、小さくて可憐な唇、彼女を構成するすべてのパーツはどこもかしこも超一級品。何度目にしても慣れることができないほどの、外見だけは完璧な超絶美少女。  彼女こそ、この第二ボランティア部の部長である石動美緒《いするぎみお》先輩だった。  石動先輩は俺の姿を見ると——不機嫌そうに表情を歪めた。 「やっと来やがったわね、ブタロウ」  イライラした様子でそんなセリフを吐く。  先輩の横には、長い髪を首の後ろで結った長身の美女が立っている。私服の上に白衣を羽織り、どこか気怠げな無表情を浮かべているその人の名前は鬼瓦《おにがわら》みちる。桜守高校の保健医をしている人で、かなり性格が破綻している困った人だった。  俺はあんぐりした顔で先輩の姿を見つめていた。その美しいお顔に見とれているわけではない。 「せ、先輩、あの……」 「あ? なに? あたしの目の前で切腹でもしたいの?」 「なんでですか……いや、そうじゃなくて……」 「なによ? あたしの目の前で舌をかみ切りたいの?」 「違います。だから……」 「あたしに首を吊ってるところを見てもらいたいの?」 「だからなんで俺を自殺志願者にするんですか!? 違いますって!」 「ああ、そう。あんたがなんかしょっぱい顔してるから、とうとう自分の性癖に嫌気がさしてこの世を去る決意をしたのかと思ったんだけど、違ったみたいね。つーかよく考えたらあんたはいつもしょっぱい顔してるわよね」 「…………」  俺は一つため息をついてから、言った。 「先輩は……なんでそんな奇妙で暑苦しい格好をしてるんですか?」  石動先輩は——  なぜか、魔法使いのような格好をしていた。  濃い色をしたスカートに白いシャツ、その上に重くて暑そうな紫色のローブを羽織っている。そして頭にはとんがり帽子。 「奇妙で暑苦しい格好だと……?」  先輩のこめかみに十字路のような怒りマークが現れる。  あっ、やばい。これはやばい。  石動先輩はデンジャラスな眼光で俺を睨みながら、俺の首をがしっと掴む。 「誰のために、こんな格好してると思ってんのよ?」 「え? だ……誰ですか?」  俺は先輩の強烈な視線と折れそうな首の感触にぶるぶる震えながら、尋ねる。 「あんたのために決まってるでしょうが……」 「ぐえええええ! せ、先輩、人間の首というのはそれほど頑丈なものでは……」 「折れても不可抗力」 「ど、どこが不可抗力なんですかっ!」 「むしろ折れたら世界平和」 「い、意味不明……げぶうっ!」  やばい。このままでは俺の病気が発動して……はあ、はあ、はあ…… 「ふんっ」  俺が我を忘れる寸前、先輩は俺の首から手を離してしまった。ああ、もうちょっとで快楽の暴発が僕ちんの脳髄にエターナルヘブンを…… 「キモい顔でにやついてるんじゃないわよ、この変態のブタ野郎が」  いつもの容赦ない罵倒が先輩の口から飛び出す。  そう——ドMの変態である俺は、身内以外の女性に罵られたり冷たくされたり殴られたりすると気持ちよくなってしまうという哀れな習性を持っているのだった。ああ……我ながら、なんて悲惨な生き物なのだろう……  俺は首のあたりを押さえながら、 「あ、あの……その格好は俺のためにやってるってのは、どういうことなんですか?」 「言葉通りの意味よ」  先輩は腕を組み、傲慢に言い放つ。 「よく聞きなさい、変態三冠王っ! この格好はね、あんたのキモいというかグロい変態体質を治すためにやってるのよっ!」 「グ、グロい……」  気持ち悪いを通り越してついにグロテスクになっちゃった…… 「あんたは父親や祖父の代から続く変態体質! つまりあんたのドMは遺伝してるってことらしいわね! でも、そんな変態体質が遺伝することってある? 答えはノーよ! そんなもん遺伝するわけないだろうが! 非現実的な話もたいがいにしやがれっ!」 「そ、そんなこと言われても、現に遺伝してるんだし……」 「遺伝ではないとしたら、なぜそんなものが親子代々受け継がれてしまうのか? そう考えたとき、あたしの天才的な頭脳は一つの解答に行き着いたのよ!」 「一つの解答?」 「そう。あんたのドM体質は遺伝のせいなどではなく……」  先輩はびしっと俺に人差し指を突きつけ、言った。 「悪霊の仕業——なのよっ!」 「…………」  石動先輩は自信満々な様子。悪霊って……遺伝よりも遥かに非現実的な気がしますが。 「たぶん、大昔にこんなことがあったのよ。……あんたの祖先である砂戸江無之助《さどえむのすけ》は昼間から全裸で逆立ちするのが趣味という困った人間で当然のように村八分にされていた。そんな江無之助のキモさに我慢の限界を迎えた村人たちは、江無之助を町奉行に突き出した。当然のように有罪になった江無之助は鞭で百叩きの刑に処されたんだけど、その百叩きの途中、江無之助は鞭でぶたれる快感に目覚めてしまったのよ。でも、百叩きがあまりに過酷だったので江無之助は刑の途中で死んでしまった。だけど、死してなお鞭でぶたれる快感が忘れられなかった江無之助は、自分の子孫に取り憑いてドMの悦楽を求めるようになった……というわけよ」 「なんですかそのアホみたいなエピソードは……」 「だから、あんたのドMを治すためには、あんたに取り憑いてる悪霊を……江無之助を祓わなければならない! それが唯一の解決方法なんだわ!」 「…………」  あまりに馬鹿馬鹿しくて言葉が出なかった。 「そこで、私がこのコスチュームを用意したというわけだ」  と、みちる先生が無表情で言う。 「除霊という高度な霊的作業において、コスチュームというものはとても大事なものだからな。魔法使いは魔法使いらしい格好をすることによって、自分の中の魔法的素養を呼び覚ます。というわけで、美緒には私が用意したこのコスチュームを着てもらったのだ」  ……いや、みちる先生はただ魔法使いの格好をした先輩が見たかっただけなのだ。絶対。  みちる先生の趣味は服を作ることと、かわいい服を着た美少女の写真を撮ること。その趣味への欲求を満たすために、先輩はこれまで何度もコスプレまがいのことをさせられてきたのだ。 「では——いまから除霊を行います」  先輩は言うと、奥の部屋——部室は十畳ほどの広さでさらに奥にもう一つ六畳ほどの畳敷きの部屋があった——からなにやら大きな布を取ってきた。  床に広げる。一辺が二メートルほどの正方形の布だ。その布には、円形の模様が描かれている。 「あの……これはなんですか?」 「これは魔法陣よ」 「ま、魔法陣?」 「そうよ。この魔法陣には悪霊の力を弱める効果があるらしいわ。……それじゃあブタロウ、とりあえず上着を脱ぎなさい」 「え!? な、なんで上着を……」 「いいからさっさと脱げって言ってんのよ。あんまりごちゃごちゃ言ってると泥水で腸内洗浄するわよ」 「それは洗浄とは言えません……」  結局——  先輩に逆らうことができず、俺は上着を脱いで上半身はだかになった。逆らっても無駄なことは経験的に知っているのである。 「あの……」 「なによ?」 「もしかして、除霊って先輩がやるんですか?」 「当たり前じゃない」 「……先輩って、霊感とかあるんですか?」 「幽霊とか一度も見たことないし金縛りにすらあったことないけど、たぶんあるわ」 「ないですよ! 確実にないですよっ!」 「大丈夫よ。あたしは神様なんだから、除霊ぐらい簡単にできるはず」  と、なぜか自信満々で言う。先輩は相変わらず自分は神様であると公称していた。自称神様。本気で言ってるのかは不明だが、ちょっとアレな感じです。 「ちゃんとオカルト研究会に所属してる知り合いからいろいろ訊いたし、問題ないわよ。この魔法陣もそのオカルト研究会の知り合いが用意してくれたのよ。だから信用していいわ」  悲しいほどに信用できない。というか、先輩の格好って明らかに魔法使いだけど、普通は除霊って巫女っぽい格好をした除霊師とかがやるのでは……そこらへんの適当っぽさがすごくうさんくさい……  先輩はポケットから長細い紙を取り出した。見たところ、それはどうやらお札のようだった。次に取り出したのは瞬間接着剤。先輩はお札の上のほうに接着剤を塗ると、 「うおりゅああっ!」  無意味な気合いの声を張り上げ、そのお札を俺の額に貼り付けた。 「げ、げぶあっ!?」  ぐりぐりと額に押しつけられる。頭蓋骨が陥没しちゃいそうな圧力だった。 「うう、痛い……というか瞬間接着剤を人体に使うなんて……よい子は絶対にマネしちゃいけません……」 「よい子は絶対にマネしちゃいけない生き物のくせになにをほざくか」  先輩は言うと、 「じゃあブタロウ、その魔法陣の上でブリッジしなさい」 「ブ、ブリッジですか!? なんでそんなこと……」 「うるさい! さっさとしろっ!」 「は、はい……」  俺は魔法陣の上に仰向けになり、「どうわっ!」とかけ声をあげながらその場でブリッジをした。上半身はだかで、額に接着剤でお札を貼り付けたまま……俺の人生っていったいなんなんだろう…… 「ふむ」  先輩はうなずくと、ブリッジする俺のへその近くに、なにやら砂のようなものをさらさら落とした。 「せ、先輩、いまなにを——え?」  なんか熱い。  へその辺りが熱…… 「あ、熱っ! あちちちちちちちちちち——!」 「こら、動くんじゃないわよっ! 除霊お灸が落ちちゃうでしょ!」 「除霊お灸!?」 「そうよ。このお灸で汚らわしいあんたのブタ肉体を清めているの。これはいまから行う除霊作業の大切な下準備なんだから、ちょっと熱いぐらいは我慢しなさい」 「ちょ、ちょっとどころじゃ——あちいいいいいい——っっ!」 「動くなって言ってるでしょ! おとなしくしてないと乳首を燃やすわよ!」 「そ、そんな……はあ、はあ、はあ……」  あああああああ、変態のオイラにはこの熱さもだんだん気持ちよく……はあ、はあ、はあ、はあ…… 「よし。これで準備完了ね」  先輩はにっこりとほほ笑む。それは天使の微笑だった。 「では、これから除霊をはじめるわ」  なにかのスイッチが入ったかのように、先輩は真剣な顔になる。ぷるぷる震えながらブリッジを続ける俺の顔の前に立った。  すーはー、すーはー、と深い深呼吸を繰り返す。  先輩は神妙な表情を浮かべると——  見えないボールを包むような感じで重ねた両手を、腰だめに構えた。  そして。 「あ〜く〜りょ〜う……た〜い〜さ〜ん……」  眉間にしわを寄せながらつぶやいたあと、くわっと両目を見開き、 「ハアアアアアアアアアアアア——————っっっ!」  と叫びながら、勢いよく両手を俺のほうに突き出した。 「…………」 「…………」  先輩は俺のほうに両手を向けている。  俺はなにも言えず、ブリッジしたままで先輩の顔を見つめている。  そんな俺たちを、みちる先生が無表情で眺めている。 「…………」 「…………」  奇妙な沈黙が流れた。  いったいこれはなんなんだ?  もしかして……いまのカメ○メ波みたいなのが除霊なんですか?  やがて。 「……ふう」  先輩は全身の力を抜き、大きく息をつく。額の汗をぬぐいながら、 「渾身の一撃だったわ……」 「…………」 「これであんたに取り憑いてる悪霊は祓われたはずよ」  先輩はなにかをやり切った表情で俺のほうに一歩近づくと、 「じゃあ……あんたのドMが治ってるか試してみましょう」 「え? 試すって……」 「せえーの——うりゃああああっ!」  先輩は叫びながら、思いっきり俺の背中を蹴り上げた。 「ほぎゃああああああああああ————っ!?」  ブーメランのように旋回しながら吹っ飛ぶ俺の体。机や椅子をメチャクチャになぎ倒しながら床に激突する。手足を不自然に折り曲げた変な体勢で倒れる俺の目の前には——  優しい光に満ちた変態ワールドが広がっていた、 「はあ、はあ、はあ——はあはあはアハハハ、あはあああああああああああんっっっ!」  超常的なほどに溢れ出す快楽の黄金世代が全身を一瞬で支配し、理性を喪失した哀れで愚かなブタ野郎に成り下がった俺は、あへあへあへとラリった笑みを浮かべながら先輩に飛びつき、 「あはんっ! あはあああああああんっ! ヘイベイベー! こりゃあ気持ちいいぜオウイエスッ! 美緒様のキックは極上の味なのダダダッ! はあ、はあ、はあ、も、もも、もうタロウマグナムは我慢できないでちゅうううう——————っっっ! だ、だだだ、だからこの悲劇的な変態生物に美緒様の神的な蹴りをもっともっともっと——」 「毎度毎度ほんっとキモいなこのブタ野郎はああああああ————っっ!」 「えいどりああああアアアアああああん————っ!」  先輩にカウンターのグーパンチをいただいた俺は、うれし涙を流しながらもんどり打って床に倒れ込んだ。至福の絶頂にぴくぴく体が痙攣する。 「あふう……んん……イエス……」 「やれやれ……この美緒様のS級霊力をもってしても祓うことができないなんて、厄介な悪霊ね……仕方がない、最終兵器を使うことにするわ……」  言うと、石動先輩はどこからともなく長い棒を取り出した。その棒の表面にはなにやらお経のような文字がびっしりと書かれている。ところどころ血痕らしきものも付着しているみたいだった。 「せ、せんぱい、それは……?」 「これは除霊棒と呼ばれる霊具よ。この棒で悪霊に取り憑かれている人間を叩くと、その悪霊は跡形もなく消え去ると言われているらしいわ。オカルト研究会から一万円で買ったものよ」 「い、一万円!?」 「そうよ。これを使えば、あんたのドM体質もすぐに治っちゃうはず……」  先輩は除霊棒とかいう謎の棒を振り上げながら、 「一万円もしたんだから絶対に効果あるわよね……だって一万円だし……」 「せ、先輩! それは完全に騙されていますっ!」 「一万円もしたんだもん……だから大丈夫だもん……」  先輩はぶつぶつつぶやきながら、俺のほうににじり寄ってくる。  えっ、マジでやっちゃうの?  その棒で俺を叩いちゃうの? 「せ、せ、せせせせんぱ——」 「喰らえこのゴミ悪霊がああああああああ——っっ!」 「がびょおおおおおおおおおおおおおおお——————っっっ!」 「悪霊退散っ! 悪霊退散っっ! 悪霊退散っっっ!」 「がひっ! ごふっ! あっちょんぶりけえええええええ——っ!」 「死ね江無之助っ! 音速で死ねっ! つーかブタロウごと死ねっっ!」  オウッ! オウオウオウッ! それは悦楽パラダイスっ!  石動先輩は容赦ない斬撃を俺の体に浴びせまくる。もはや最初の一撃で俺の理性は冥王星より遠くに弾け飛び、もうはあはあはあはあはあはああああああっっ!  先輩は除霊棒の先端を床に触れさせるようにして構え、「ふぉおおおぉおおお……」と気合いの息を吐く。 「大気に宿るマナの力よ、この除霊棒に力を与えたまえ……」  石動先輩はわけのわからないことを言ったあと、 「死にさらせクソ悪霊がああああああああああああ————っっっ!」  と、魂のこもった絶叫とともに、下からすくい上げるようにして放った除霊棒で俺の体を吹っ飛ばした。 「おほおおおおおおおおおおおいいいいイイイィイEEEEEEE————ッッ!」  すさまじい衝撃だった。  吹っ飛ばされた俺は、全身を侵すマゾヒズム的な超極大快楽に酔いしれ、病的な笑みを浮かべながら床の上に仰向けで倒れ込む。 「あ、あひぃ……いっそ殺してぇ……」  もう限界だった。俺は不気味に痙攣しながら床に倒れている。  と、そのときだった—— 「……ぐえええええっ!?」  突然、腹部に衝撃。こ、今度はいったいなんでしゅかぁ……?  見ると。  俺の裸の腹の上に、誰かの足が乗っかっていた。 「あれ、いまのふにょっとした感触は……ひぃやああっ!」  高いところからそんな声が聞こえる。  俺の腹に足を乗せているのは——結野嵐子《ゆうのあらしこ》だった。  指通りのよさそうなショートカット気味の髪に、ぱっちりした大きな瞳が印象的な美少女。赤ちゃんみたいになめらかで白い肌に、綺麗な桜色をした薄い唇。結野は第二ボランティア部の部員であり、俺のクラスメイトでもある。  いま俺が倒れているのは、部室の扉の前。  つまり、部室にやってきて中に入ろうとした結野は、床に倒れる俺の姿に気づかず、俺の腹部を思いっきり踏んづけてしまったということで……そして踏んづけられた僕ちんはまた気持ちよくなっちゃったわけで……はあ、はあ、はあ、はあ…… 「…………」  結野は大きく目を見開きながら、床に倒れる俺と自分の足を見つめている。俺は上半身はだか、おへそ近くに謎の火傷をし、額に謎のお札を貼っているというなかなかの変態スタイル。  結野の顔面にびっしりと汗が滲《にじ》む。  全身が小刻みに震え、その震えが次第に大きくなっていき—— 「あ、あああああ……そうなのだ、男性恐怖症である結野嵐子は、男性の体に少しでも触れるとその男性を殴ってしまうという厄介な習性があるのだ。その習性のおかげで、俺はこれまで何度も彼女に殴られ、そのたびにドMを発動させてきたのだった……」 「砂戸太郎。君はいったい誰に説明しているんだ?」  と、みちる先生が冷静にツッコんでくる。 「イ——————」  結野の喉から、 「イヤアアァアァアアアアアァアアアアア————ッッ!」  甲高い叫び声が放たれる。  そして、結野の体が跳ねた。  近くにあった机を足場にして宙高く舞い上がった結野は—— 「こわい、こわいこわいこわいこわいよおおおおおおお——っ!」 「ごるばああああああ——っっ!」  体重と重力を利用した必殺の両膝を、俺の腹部にめり込ませた。  かつてないほどの衝撃。つーか下手したら内臓破裂して死んじゃうほどの攻撃だった。  さらに結野は俺のマウントポジションをとると——キモい笑みを浮かべるマイフェイスに容赦のない鉄拳を叩きつけてくださった。 「ふぇーんっ! 男の子ふんじゃったっ! 男の子ふんじゃったよぉおおっ! ふええええええええええええんっっ!」 「そんなうんこ踏んじゃったみたいに——ぎゃばっ! ぎゃばぎゃばっ! はあああああああああああ! 結野さん気持ちいいですぅ! もっと、もっとくださいですうううぅ!」 「ひぃやあああああっ! き、気持ち悪いっ!」 「ああそうさっ! タロウマンは気持ち悪いさっ! でもいいじゃないか気持ち悪いってのも個性じゃないかだからもっともっともっともっと——」 「もう……いやああああああああああああああ————っっっ!」 「どんばぐえはあああ——っ!」  結野に殴られ快感に悶える俺を、石動先輩はゴミを見下ろすように眺めながら、 「……うわ、こいつ、除霊棒で殴ったのにまったくドMが治ってないじゃない」  言って、口をへの字に曲げる。 「やっぱ悪霊のせいってのは無理があったのかしら……やれやれ、また違う方法を考えないと……」 「こわいよぉ! 男の子こわいよおおっ!」 「あひぃ、あひぃ……げふっ……」  超絶的な快楽のオーバードライブによって、俺は失神した。  部活の帰り道。  俺と結野はいつものように一緒に帰っていた。  部活はたいてい午後一時頃にはじまり、終わる時間は決まっていないがだいたいは午後四時になる前に終了していた。そのあいだにやってることといえば……ほとんどが俺のドMの治療、それ以外の時間は適当にだべってるだけ、みたいな感じである。ちなみに、夏休みになってから第二ボランティア部に願いごとをしに来た生徒は一人もいない。 「はあ……」  歩きながら、ため息をつく。  ドMの快感に我を忘れ、キモいほどに悶絶していた自分を回想すると、もうどこか高いところから飛び降りたくなる。まったく俺って奴は…… 「……タロー」  と、隣にいる結野が話しかけてくる。申し訳なさそうな顔でうつむきながら、 「ごめんね……今日も殴っちゃって。でも、まさかあんなところに寝てるなんて思わなくって……」 「いや……」  俺は軽く首を横に振りながら、 「おまえが悪いわけじゃねえよ。アレは……強いて言えば、石動先輩が悪いんだ……」  言って、またため息をついてしまう。 「つーか、石動先輩もメチャクチャだよな……俺がドMなのは悪霊が取り憑いてるからだなんて……」 「た、確かに、それはちょっとメチャクチャかも……」  結野は苦笑しながら言う。 「でも、美緒さんは本当に真剣なんだよ。真剣にタローのドMを治すためにはどうすればいいかって考えて、それで……」 「それで除霊って結論に至るのがすげえよな……」  まあ、確かに真剣なのは真剣なのだろう。そうでなければ一万円も出してあんな怪しげな棒を買ったりしないだろうから。  だが、あまりにもメチャクチャすぎる。あんな方法でドMが治るわけがない。  いや、今回に限ってではなく、石動先輩が考え出すドM改善方法はいつもメチャクチャなのだ。それで俺はいつも大変なことになってしまう。 「ねえ……前から訊きたいと思ってたんだけど……」  ブルーな俺の顔を見つめながら、結野が小さな声で言う。 「タローは……第二ボランティア部を辞めたいの?」 「えっ?」  結野のほうに顔を向ける。  大きな瞳が俺を見上げていた。 「それは……」  俺が第二ボランティア部にドMを治したいという願いごとをしたのは、初恋の相手に告白したいと考えたからだった。それはいろいろあって最悪の結果に終わってしまい、もうその目的はなくなった。  だが、これからの人生のことを考えればドMなんていう重い十字架は下ろしたほうがいいに決まっている。だから第二ボランティア部に通うことによってドMが治るなら、その可能性があるのなら、俺は喜んで部活に出るだろう。  が、しかし……石動先輩の言うとおりにして、あんなメチャクチャな方法ばかりで、果たして俺のドMは治るのだろうか。かなり疑問だった。  俺は頭をがしがし掻きながら、 「辞めたいとか思っても、たぶん先輩は辞めさせてくれないような気がするんだが……」  そんなことを言い出せば、きっと先輩は怒り狂うだろう。 「タローが、本当の本気で部活を辞めたいって言ったら、美緒さんも無理に引き止めることはしないと思う」 「そ、そうか?」 「うん。でも……」  結野は俺から目を逸らし、うつむき加減で、 「でも、わたしはタローに辞めてほしくないな……」 「え?」  結野の顔を見る。  結野は視線を前方に向けたまま、照れのせいかほんのり頬を赤く染め、 「わたしは、タローといっしょにがんばって、お互いの体質とか恐怖症とかを治したい。タローといっしょだったら、わたし、がんばれるような気がするから……」 「…………」  そんな不意打ちな感じの言葉に、俺はなにも言えなくなってしまう。  結野は恥ずかしさをごまかすみたいに笑顔を浮かべ、 「だから、いっしょにがんばろうよ。ね? タロー」 「……あ、ああ」  俺は熱くなった顔を結野から逸らし、小さな動きでうなずく。 「まあ……もうしばらくはがんばってみようと思うけど……」 「ほんと? うれしいな」  と、結野はわずかに声を弾ませる。 「…………」  最近気づいたんだが、結野は意外と感情表現がストレートなところがあって、俺はしばしばドギマギしちゃったりしていた。こいつはちょっと天然なところがあるのだ。 「でも、ドMが治るのはいつになることやら……」 「あんまり悩みすぎるのもよくないよ」  結野は言って、 「じゃ、じゃあさ……」 「ん?」 「あ、あのね……」 「なんだよ?」 「ええーっと……」  結野はどこかもじもじした様子。なにやらさっきまでとは比べものにならないほど顔を真っ赤にしていた。なんだ? いったいどうした?  結野は意を決したようにがばっと顔を上げ、 「き、気晴らしに……明日、映画にでも行かない?」 「へ?」 「ま、前にね、繁華街で福引きをしたとき、映画のタダ券が当たったの。だ、だから、よかったらいっしょにって……明日って日曜日だから部活も休みってことになってるし、それで……それで……」  そこまで言ってエネルギーがゼロになったのか、結野は俺から目を逸らしてうつむいてしまった。緊張のせいか、その体は小刻みに震えている。  俺はそんな申し出をされるとは思っていなかったので、なんか固まってしまった。  ええっと……つまり、こいつは俺を映画に誘ってるってことか?  それ以外に解釈のしようがないのだが、なんか信じられない気持ちだった。結野が俺を遊びに誘うなんて…… 「ダメ、かな?」  返事がないことに不安になったのだろう、結野はおそるおそると上目遣い。 「いや……ダメじゃねえよ、べつに……」  俺は平静を装いながら言う。 「で、でも、なんで俺なんだ? 誘うなら、石動先輩とかみちる先生のほうが……」  普通に考えると、結野は二人のほうを優先的に誘うような気がするのだが…… 「え? そ、そそ、それは……」  結野は、あたふたと両手を動かしながら、 「そ、それはね……ええっと、そ、そうっ! あれなの! お、男の子に慣れる練習みたいな感じで……」 「男の子に慣れる練習?」 「う、うんっ。男性恐怖症を治すために、わたしも努力しないとなって思って……」 「なるほど……そういうことか」  そもそも、結野が第二ボランティア部に入ったのは男性恐怖症を治すため。彼女は自分の恐怖症を治すことに前向きなのである。つまり、結野は男性に少しでも慣れるためにと、俺を映画に誘ったのだ。 「わかった、そういうことなら——」 「微妙にわかってない……」 「え? なんか言ったか?」 「う、ううんっ! なんでもない!」  結野は慌てたふうに首を横に振る。 「そういうことなら、明日は俺もべつに用事とかないし……」  結野は普段より少し大きく目を見開き、俺を見上げている。……そんなに見られると、なんか照れるぞ。 「……じゃあ行くか、映画」  俺がそう言うと、 「うんっ!」  結野は心の底からうれしそうな笑顔を浮かべた。  翌日。日曜日。  俺は駅前の広場で結野を待っていた。  五月の終わり、俺は結野と二人で動物園に行ったことがあった。あのとき待ち合わせの場所にしたのも、この広場だった。  ベンチに座る俺は妙にそわそわしていた。  なんか……俺ってすげえ緊張してる感じ。動物園に行ったときはこんな緊張してなかったはずなのに、なんでだろう……  俺は自分の着ている服を見下ろした。普通のシャツとジーンズ。べつに、おかしくないし死ぬほどダサいってわけでもないよな……たぶん……  と——  待ち合わせの時間ちょうど、広場に結野の姿が見えた。  ベンチに座る俺に気づくと、結野はぱたぱたと駆け寄ってくる。 「お、お待たせ」 「ああ……」  ぼんやりつぶやきながら、ベンチから立ち上がる。  今日の結野は、白を基調としたノースリーブのワンピースを着ていた。サンダルを履き、小さなバッグを持っている。夏の日差しを受ける白い肩が、まぶしいほど輝いていた。  後ろでまとめた髪型も新鮮だった。メイクは唇にリップを塗っているくらいでほとんどしていない——というか、する必要がないという感じ。長い睫毛とか、吸い込まれそうな大きな瞳とか、思わず触れてしまいたくなるような真っ白でなめらかな肌とか…… 「…………」  そんな結野の姿を見下ろしながら、改めて思う。  こいつって……やっぱりかわいいよな。  照れたふうに髪をかき上げる仕草、少し上気した頬、桜色をした薄い唇、日差しを反射して綺麗に輝く瞳……なんか今日の結野はどこもかしこも妙にかわいく見えてしまって、俺は少し困った。 「あ、あの……」  結野は少し不安そうな顔をしながら、 「こ、この格好……なんか変かな?」 「え?」  その結野の言葉で、俺はぶしつけなほど結野の姿をじろじろ見ていたことに気づいた。 「い、いや、わりい……ええっと……」  慌ててしまった俺は、つい本音を言ってしまう。 「なんか……か、かわいいなって思って……」  ——って、なに言ってんだ俺は?  やばい。慌てすぎだ。なんかちょっと脳内がパニックになっちゃってる。 「え……?」  結野はぱちぱち何度かまばたきをしたあと——薄い唇をきゅっと引き結び、顔を赤くしながらうつむいてしまった。丸いおでこに触れている前髪が焦げたりするんではないかというほど真っ赤な顔だ。 「い、いや! その……」  俺の顔も熱くなっていく。 「…………」 「…………」  さんさんと輝く太陽の下、俺と結野は気温の暑さとはまったく関係ない理由で体温を上げてしまっていた。  変な空気を振り払うように、 「と、とりあえず……行きましょうか?」  そう俺は言った。つーかなんで敬語なんだ俺は?  結野はがばっと顔を上げると、 「う、うんっ」  変に力んだ声でうなずく。  それから、俺たちは繁華街にある映画館のほうに向かった。 「…………」 「…………」  おかしい。結野とは毎日のようにいっしょに下校してるんだし、並んで歩くことにはもう慣れていると思っていたのだが……今日は異様に緊張する。  このまま黙りこくっているのも非常に気まずいし、なんか話そうと思うのだが、なぜか言葉が浮かんでこない。ううむ、とても困った。  とりあえず、無難な話題を—— 「きょ、今日も……すげえ暑いな」 「え? ……う、うん。すごく暑いね」 「昨日も暑かったしな……」 「うん、昨日も暑かった……でも、今日のほうが暑い気がするね」 「そ、そうだな。……たぶん、明日も暑いんだろうな」 「たぶん……だって、夏だもん」 「そりゃそうだ……」 「…………」 「…………」  なにこれ? なにこの会話? もっと気の利いたこと言えよ俺っ!  俺が自己嫌悪に陥っていると——  結野が、軽く握った右手で口元を隠すようにして「くすっ」と笑い声を上げた。 「え?」 「あ……ごめん」  結野は笑顔を残したまま俺を見上げ、 「なんでわたしたち気温の話ばっかりしてるのかなあって思ったら、なんだかおかしくなっちゃって……」 「確かに……」  俺も笑みを返す。  なんでもないことで笑い合う。すると不思議なことに、それまで俺たちを取り巻いていた変な空気は綺麗に消えてしまった。ううむ、笑顔というのは偉大だな。  そのときだった。 「——っ!?」  ぞくぞくぞくぞく! と背筋に寒気が走った。  全身に氷水を浴びせられたかのような、強烈な悪寒。  な、なんだこれは? 激しくうろたえた俺は反射的にキョロキョロ辺りを見回す。 「タロー? どうしたの?」  そんな俺を、結野が小首をかしげながら見上げていた。 「え? い、いや、ええーっと……」  寒気が走ったのは一瞬のことだった。いまのは気のせいだったのか? 「な、なんでもねえよ」  俺はごまかすような笑みを浮かべる。結野もあまり気にしなかったのか、それ以上はなにも言ってこなかった。 「でも、ほんとに暑い……嫌になっちゃうくらい。わたし、夏ってちょっと苦手かも」  あどけない顔を太陽に向けながら、結野は言う。 「日焼け止めだって毎日塗らなきゃいけないし……」 「へえ、日焼け止めとかちゃんと塗ってるんだな」 「一応、女の子ですから」  と、結野は冗談っぽく笑いながら言う。 「それに、わたしってあんまり肌が強くなくて……日焼け止めもなしに強い日差しに当たりすぎちゃうと、火傷みたいに赤くなるの」 「ふうん、大変だな」  俺は日焼けとかあんまり気にしたことないな。黒くなるならなればいい、なってしまえ、みたいな感じだ。 「そういえば……美緒さんって、いままで日焼け止めとか塗ったことないんだって」 「ああ、そうなのか」  確かに、石動先輩はそういうの面倒がりそうだ。 「それなのに、あんな綺麗な肌で……なんか不公平だなあ。でも、美緒さんは日焼け止めとか塗ってないのになんで日焼けしないのかな?」 「紫外線ごとき、石動先輩の敵じゃないだろ」 「ふふ、そうかも」  そんな他愛のないことを話しながら歩いていると、前方に目的の映画館が見えてきた。 「そういえば、今日観る映画ってどういうやつなんだ?」 「ええーっと……確か、洋画のラブストーリーだったと思うけど」 「ラブストーリーか……」 「そういうの嫌いだった?」 「ん? いや、べつに……」  正直そういうのはあまり観ないのだが、タダなのだから文句などあるはずがない。  映画館に入る。上映時間まではまだ少し時間があった。 「ジュースとか買ってくか?」 「え? えっと……」  結野は迷うそぶりで、売店のほうに目をやった。  その表情がほんの少しだけ強ばる。どうしたのだろうと思い、俺はその視線を追った。  普通の売店があるだけだった。レジカウンターに立つ二人の店員が客の注文に応じている。なんで結野は…… 「あ……」  そこで、俺は気づいた。  売店にいる店員は、みんな男性だった。 「そういうことか……」  男性恐怖症の結野は、男性の体に触れるとその男性を殴ってしまう。  売店で品物を買い、お釣りやレシートを渡されるときに店員と手が触れ合うことなんて日常茶飯事。だが、そんな日常茶飯事なことでさえ、男性恐怖症の結野にとってはとても神経を使うような大変なことなのだ。 「結野、俺はジュース買ってくるけど、おまえもなんかいるか? ついでに買ってきてやるけど」 「え……じゃ、じゃあ、オレンジジュース……」 「了解」  やれやれ……こういうときは、遠慮せず俺に頼めばいいのに。  結野を残し、俺は売店に向かった。  売店に並ぶ列の一番後ろに立ちながら、ちらっと後ろを見やると——結野がうれしそうにほほ笑んでいた。 「…………」  なんとなく恥ずかしくなった俺は、鼻の頭をぽりぽりと掻いた。  と—— 「……ふぎっ!?」  こ、この悪寒は……さっき感じた……  気のせいなんかではない。俺は周りに視線を向ける。 「こ、これは……はあ、はあ、はあ……」  わかる。天性のドMである俺にはわかる。これは、どこかから何者かが俺に殺意のこもった視線を向けているのだ。その視線に、変態的な俺のボディが反応しているのだ。そしてその視線の持ち主は、当然のごとく女性であり…… 「は、はふう……っ!」  ガクガクガク、と膝が震える。辺りを見回すが、俺を睨んでいるような女性は見あたらなかった。  ということは、この視線はけっこう離れた場所から……そんな遠距離からこれほどの殺意を届かせるなんて、恐ろしいほどの使い手……はあはあはあはあ…… 「あの……お客様?」 「えっ!?」  いつの間にか俺の前にあった行列が消化されていた。売店にいる男性店員が訝しげな顔で俺を見ている。 「どうかなされましたか?」 「い、いえ……大丈夫です! マジで大丈夫ですから! べ、べつに気持ちよくなんかなってないですよ! たぶん!」 「はあ……」  俺は売店で二人分のジュースを買う。殺意のこもった視線はもう消えてしまっていた。  俺は冷や汗をぬぐいながら、ふうと息を吐く。  さっきの視線はいったい……わけがわからず、俺は首をかしげた。  ——映画の上映時間になり、俺たちは席に座る。  映画はわりとべタな感じの純愛ストーリーだったが、けっこうおもしろかった。  隣に座る結野も熱心な様子でスクリーンを見つめていた。だが、映画のラスト近くに濃厚なラブシーンがあって、その場面はなんか恥ずかしくてまともに観れない感じだった。  上映が終わり、映画館を出る。  ちょうど昼食時だったので二人で昼ごはんを食べることにした。  結野が前から行ってみたかったというサラダバイキングの店に行く。そこで、さっきの映画の感想などを言い合いながら、昼食を取った。  店を出たあと、俺は結野に「これからどうする?」と尋ねた。 「えっと……タローはどうしたいの?」 「そうだな……」  俺はちょっと考える。このまま帰宅ではさすがに味気なさ過ぎるだろう。 「ゲームセンターにでも行くか? ……あ、でも、ゲーセンとかは男がいっぱいいそうだし、やっぱ……」 「そんなに気を遣わなくても大丈夫だから」  と、結野は優しげにほほ笑む。 「ゲームセンターか……あんまり行ったことないから、行ってみたいなあって思ってたの。だから、行こうよっ」 「ああ……結野がそう言うなら……」  映画館から少し離れたところにあるゲームセンター。そこに俺たちは向かった。  あまり混雑はしていなくて、俺はほっとした。これなら結野も大丈夫かもしれない。 「タロー。わたし、これやりたいなあ。この太鼓たたくやつ」 「ん? ああ、これか」  最近やってないが、前は辰吉《たつきち》とよくやったなあ。 「いいぜ。じゃあ、いっしょにやるか」 「うん」  結野はにっこり笑ってうなずいた。  二つ並んだ太鼓の前に立ち、バチを握る。これは画面を流れてくる音符に合わせて太鼓の面やふちを叩くというゲームである。難易度はかんたんコース、曲を選択し、ゲームスタートだ。  曲に合わせて流れてくる音符がタイミングを表すワクに来たときに太鼓を叩く。ドン、ドンドン。俺は何度かやったことがあるので、かんたんコースならほとんどノーミスでプレイすることができた。  隣の結野は、 「えいっ! えいっ、えいっ!」  そんな声を上げながら、一生懸命な様子で太鼓を叩いている。すごく真剣な表情で画面を見つめながら、太鼓をドンドン——というかポカポカという感じで叩いていた。  予想以上に……結野はヘタクソだった。  俺が見ている限り、結野は一度もうまく太鼓を叩けていない。逆にパーフェクトより難しいんじゃないかというほど、見事にタイミングを外して叩いていた。 「えいっ! えいえいっ! あ、あれぇ……おかしいなあ……」 「…………」  それから五回ほど連続でプレイした。普通は五回もプレイすればかんたんコースくらいクリアーできるようになるものだが……  結野は両手でバチを持ったまま、恨めしそうな顔で太鼓を見つめている。五回もプレイしたのに、結野はほとんど上達しなかった。ある意味これは才能と呼べるかもしれない。  もちろん負の意味で。 「わたし……このゲーム、きらい……」  なんだかちょっと泣きそうになっていた。  俺は取り繕うような笑顔を浮かべて、 「じゃ、じゃあ、今度はこっちのクイズゲームでもしようぜ。二人で協力して」 「クイズゲーム? うん、そっちのほうがいい」  クイズゲームがある筐体の前まで移動し、並べて置いてある椅子に座る。  少し距離が近づきすぎるので、結野は大丈夫かなと思ったが、平気そうな感じだったのでなにも言わないことにした。が、やはり触れてしまうと大変なことになっちゃうので、そこは充分注意する。  画面に出る様々なクイズを、二人で協力して解いていく。ワンコインだと三回間違うとゲームオーバーだ。難しい問題ばかりなので、何度もゲームオーバーになってしまう。そのたびに、コイン投入口の近くに積んだ百円玉を投入してコンティニュー。  最初のうちは何回かゲームオーバーになったらやめようと話していたのだが、次第に二人とも意地になってきて、なんとしてでもクリアーしてやるという気持ちになっていた。 「タ、タロー、この問題わかる?」 「いや……さっぱりわかんねえ」 「ああっ! は、早く答えないと時間切れに……」 「くっええい、これだっ!」 「あっ! 正解っ! タローすごいっ!」  そんなこんなで一時間後——  画面には、クリアー後のスタッフロールが流れていた。 「やった……クリアーだ……」 「うん……す、すごい疲れた」  どれだけの百円玉を投入したのか数えるのも怖いぐらいだが、なんかちょっとした達成感のようなものがあった。俺と結野は顔を見合わせて笑った。 「……ん?」  スタッフロール後、コイン投入口の近くにあった『カード出口』というところからなにやら一枚のカードが出てきた。俺はそれを抜き出す。  安っぽいイラストが描かれた、しょぼいとしか言いようのないカード。どうやらゲームクリアーの賞品らしい。あんなに百円玉を犠牲にしてクリアーしたご褒美がこれか…… 「これ、ゲームクリアーの賞品らしいけど……結野、いるか?」  そんなしょぼいカードいらない、結野はそう言うと思っていたのだが 「うんっ。欲しい」  にこっと満面の笑みで、そのカードを受け取る。  結野は両手でカードを持ち、はにかむような表情でしばらくそれを眺めていた。なんかすっごくうれしそうな顔だ。それから、えへへ、と笑いながら俺を見て、 「ありがとう。大切にするね」 「あ、ああ……」  まさかこんなものでそんなに喜ばれるとは思わなかったので、俺はちょっとびっくりしながら結野から顔を逸らした。まあ、喜んでくれてなによりだ。  じゃあそろそろ出ようかということになって、ゲームセンターの出入り口に向かっているときだった。  ゲームの筐体が並ぶ狭い通路を進んでいると、前から数人の男性が歩いてきた。  彼らとすれ違うとき、結野は露骨に怯えた気配を漂わせながら、体をぴったりと筐体にくっつけた。こんな狭い通路なので、ちょっとでも気を抜くとすれ違う彼らと体が接触してしまう。結野の緊張と不安も大きいのだろう。だが 「おい」  と、彼らの一人が俺たちに——正確には結野に声をかける。 「なんだよあんた、感じ悪いな。俺たちがなにかしたか?」  男性たちは、体を強ばらせ瞳を震えさせている結野を苛《いら》ついた様子で見下ろしていた。 「そんな、痴漢にあったみたいに怯えやがって……俺たちって、そういう変な奴に見えるのかよ? おい」 「…………」  結野はなにも言わない。怯えと恐怖でなにも言えないのだ。 「い、いや、あの!」  俺がその男性に声をかける。 「す、すんませんっ! 彼女、ちょっと気分が悪いみたいで……だから、べつにそんなふうに思ったわけじゃ……とにかく、すんませんっ!」  必死に頭を下げるが、男性たちの怒りはまだ収まらない様子だった。くそっ、あやまってるんだからもういいだろうが。  そのとき—— 「はふうううううううううううううううううううううううううう——っ!?」  ま、まただ。  また、どこからかあの殺意のこもった視線が……こ、こんなときに…… 「はあ、はあ、はあ、はあ……」  しかも今度のはこれまでで最強の威力だった。視線だけで殺されそうだった、 「う、うわあ……すんごいよぉ……」  ぶるぶるぶる、と全身に震えが走る、それは恐怖のためではなく、痺れるような快楽が神経を巡ったせいだった。 「おい……すごいってなにがだよ?」  男性の一人が訝しげな顔で訊いてくる。だが、そんなのはどうでもよかった。 「はあ、はあ、はあ……ど、どどどど、どこのどなたかは存じ上げましぇんが、も、もっと! もっと俺をそのグレートな視線でなぶってくだしゃいっ! アハッ!」 「……は?」 「うわぁい……しゅごいよぉ! しゅごすぎて涎《よだれ》が出ちゃうっ! もうオイラは悦楽街道まっしぐらだよぉ! げへへ、げへへほひはほ……」 「うわ……なんだこいつ……」 「もしかして、やばい薬でもやってるのか? き、禁断症状?」  両腕で全身を抱きしめるようにしながら内股で爪先立ち、白目をむいてカクカク小刻みに震える俺を見て、男性たちが露骨に怯え出す。 「はあ、はあ、はあ、はあはあはあはあ……ハアイイイイイイイイッ! ビビビビビビビビビ、ビクトリーッ!」 「こ、こわっ!」 「おい、もう行こうぜ……」 「ああ、そうだな……やれやれ、まだ若いのに……」  男性たちが、見てはいけないものを見てしまったような顔で、俺から離れていく。  俺が完全に我を忘れて大暴走する寸前——  俺の全身をとらえていた強烈な視線が、フッと弱まった。 「……ハッ!?」  こ、こんなときに、俺はいったいなにを……  我に返った俺は、慌てて結野のほうに顔を向ける。 「ゆ、結野? 大丈夫か?」 「…………」  結野は顔を青くしてうつむいていた。どうやら、さきほどの俺の痴態には気づいていない様子だった。 「と、とにかく、ここを出よう」  ゲームセンターを出る。少し歩くと、俺たちが待ち合わせに使った駅前の広場に出た。  そこにあったベンチに並んで腰かける。  結野は大きく息をついたあと、 「……ごめん、タロー」  と、あやまった。 「わたしのせいで迷惑かけちゃって……」 「気にすんなって。あんぐらい、どうってことねえよ」 「でも……あの人たちにも悪いことしちゃったな……」  ため息をつき、憂鬱な表情を浮かべる結野。 「ごめんね……」  弱々しい笑顔を浮かべ、俺を見つめる。 「せっかく、楽しい雰囲気だったのに……台無しになっちゃったね」  結野はかなりヘコんでいるようだった。 「べつに……台無しなんかじゃねえよ」  俺はあえて笑いながら言う。 「今日、俺は充分楽しかったし。おまえと映画観るのも、いっしょに昼メシ食べるのも、ゲームセンターでゲームするのも」 「……ほんと?」 「ああ、ほんとだ。だから……」  俺は少し照れながら、言う。ヘコんでる結野を少しでも元気づけたかった。 「また……いっしょに遊びに行こうな」  そう告げると——  結野はびっくりしたような顔で俺を見上げ、それから、 「——うんっ。また、遊ぼうね」  無邪気な子供みたいな、まっすぐな笑顔で言ってきた。 「…………」  ああ——いま気づいたけど、俺はこいつの笑顔はちょっと苦手だ。  こんなまぶしくてかわいい笑顔、あんまり長いこと直視してしまうと、なんかもう……うまく言えないけど、とにかくやばいのだ、ほんとに……  広場でしばらく休んだあと、今日はこのへんでお開きにするかということになった。  まだ日が落ちるような時間ではなかったが、ゲームセンターであんなことがあったあとなので、俺は結野を家まで送っていくことにした。  駅前から離れようとした、そのとき。 「——嵐子っ!」  という、大きな声が聞こえた。  俺と結野は声のほうに視線を向けた。  そこには——女の子が立っていた。  身長は結野より少し高いぐらいだろう。細くて長い髪をリボンで結んでツインテールにした、どこか大人びた雰囲気の美少女。ノースリーブの上着に短めのパンツを履いたその立ち姿は、なんだかしなやかだった。  少女は切れ長の瞳に喜びの色を宿しながら、結野を見つめている。 「え……?」  結野は瞳を大きく見開きながら、叫ぶように、 「ゆ——由美《ゆみ》っ!?」 第二章 そして彼女はマッサージした  由美——少女を見た結野は、そう言った。  少女はこちらに歩み寄ってくる。やがてその足取りは軽い駆け足となり、肩に担いでいた大きなバッグを投げ捨てるようにして地面に置き——「嵐子っ!」ともう一度叫びながら結野をぎゅううううっと抱きしめた。  少女はうっとりした表情で結野の体をさわさわ撫でながら、 「ああ、この感触……懐かしい……」 「ほ、ほんとに由美なの?」  結野はびっくりした顔で少女を見上げ、 「ど、どうして由美がここに……」 「嵐子に会いに来たからに決まってるでしょう? で、駅を出たら偶然嵐子の姿を見かけて……ああ、嵐子の体ってやわらかくていい匂いで……」 「会いに来たって……それなら事前に連絡してくれれば……」 「アポなしで来て嵐子をびっくりさせたかったの。ごめんね。……ん? 嵐子、ちょっと胸大きくなった?」 「な、なにを言うのよ! もうっ!」  結野はあたふたしながら、ちらりと俺のほうをうかがう。  どうやら彼女は結野の知り合いらしい。名前は由美……  由美……  どこかで聞いたことがある名前だった。  いったいどこで……由美、由美……  その名前を心の中で唱えていると——ふいに、俺の親友である葉山辰吉《はやまたつきち》の顔が脳裏に浮かんだ。 「あ……お、思い出した……」  由美というのは、辰吉が中学生の頃に付き合っていた女の子の名前——  そう、確か彼女は結野の親友でもあった。辰吉の話によれば、彼女は親の転勤で中学の卒業と同時にこの町を離れていったのだという。  二人はしばらく遠距離恋愛を続けていたのだが、いつの間にか自然消滅してしまった……辰吉はそう言っていた。  じゃあ、この子が辰吉の元彼女の間宮《まみや》由美さんなのか?  少女——間宮さんは結野の髪に顔を埋めながら、 「久しぶりに見る嵐子は超絶かわいい……わ、わたし、もう我慢が……」 「え——ちょ、ちょっと由美、こんなところで……」  なにかを察知したようにうろたえる結野。  間宮さんは軽やかな動きで結野の背後に回る。その瞬間—— 「あ……」  結野の体がぴくんと震える。 「うふふ。相変わらず嵐子の体は感度がいいわね……」  そんな結野の様子を見て、間宮さんは妖しげにほほ笑む。そして、左手で結野の左肩辺りを掴みながら、親指を立てた右手を背中に這わせる。結野の体が少しのけ反り、半開きになった桜色の唇からどこか艶やかな声が漏れる。 「は……んん……あふぅ……」 「嵐子……その表情とってもいいわ……」 「あ、や……ゆみ……やめ、ん……」  間宮さんの両手が流れるように結野の体を撫でる。結野の体が徐々に弛緩していき、瞳がとろんと力をなくし、間宮さんはそんな結野の表情を見て顔を上気させていた。  え? い、いったいなにをやってるんですか……?  そこはかとなく官能的な雰囲気に、俺は激しくうろたえる。 「どう? 久しぶりだからすっごい効くでしょ?」 「う……んん……」  やがて結野はくたりと正座するような感じで地面にへたり込んでしまった。 「あらあら、嵐子ったら……そんなに気持ちよかったの?」  ちょっと息を荒げている間宮さんは満足そうな顔で結野から離れると——  呆然と突っ立っていた俺のほうに視線を向けた。  ぞくり——と背中に走る悪寒。  それは、どこかで感じたことのある悪寒だった。 「え……?」  こ、これは……この視線は……今日何度も感じた……  間宮さんはゆっくり俺のほうに歩み寄ると、 「もしかして……あなたが砂戸太郎《さどたろう》くん?」 「えっ? あ、ああ、そうだけど……」 「そう……」  つぶやくように言うと、間宮さんは微かに笑みを浮かべる。なぜかその笑顔は少し怖い感じがした。そして、 「わたし、嵐子の親友の間宮由美。よろしくね」  言って、右手を差し出してくる。 「あ、ああ……よろしく」  俺はおずおずとその右手を握った。握手なんて慣れてないからなんか恥ずかしくなってしまう。  間宮さんは笑みを広げ——  すごい力で、俺の右手を握り締めてきた。 「ぬおっ!?」  めきめきという音が聞こえてきそうなほどのすごい力だった。俺は思わず小さな呻《うめ》き声を上げてしまう。  こ、これは、いったいどういうことですか……?  間宮さんの握力は弱まらない。ふおおお……い、痛いよぉ…… 「い、いたい……はあ、はあ、はあ、はあ……」  彼女の右手には明らかな悪意がこもっていた。いったいどういうつもりだろう。こんなことをされてしまうと、ドMの変態である俺は……はあ、はあ、はあ……  無意識のうちに顔面が笑みの形を取ってしまう。間宮さんはそんな俺の表情を観察するように眺めていた。その冷徹な視線がさらに俺を興奮させる。  俺の全身がぷるぷると気持ち悪い感じに震え出したところで——間宮さんはスッと俺の右手を放した。あああああ、もう放しちゃうのですかあ……?  間宮さんは無言で俺から顔を背けると、結野のほうを見て、 「ねえ嵐子。わたし、泊まるところとか決めないで来ちゃったんだけど、迷惑じゃなかったら嵐子の家に泊めてくれない?」 「ふぇ……う、うん……」  まだぽけーっとしている結野が、ぼんやりとうなずく。 「ありがと。じゃあ早速行きましょう。さっさと行きましょう」 「うん……」  間宮さんは結野の肩を抱き、ほとんど力ずくな感じで結野を連れて行く。なぜか思考能力をなくしている結野は、ふらふらとした足取りでその場から立ち去ってしまった。 「…………」  俺は微妙に息を荒げながら、去っていく二人の背中を呆然と見送った。  その夜のことだった。 「ふあ……」  ベッドの上であくびをする。今日はいろいろあったせいか、なんだかすごく眠い。まだちょっと早いけど寝ることにするか。そう思い、電気を消そうとした寸前——  窓からコンコンという音が聞こえた。 「なんだ? なにか窓に当たったのか?」  コンコンという音は連続して聞こえてくる。まるでドアをノックするように。 「……?」  いぶかしく思った俺は、窓のカーテンを開けてみた。 「え……?」  窓の外に、誰かいる。  長い髪をツインテールにした、切れ長の目をした女の子……  それは間違いなく間宮由美さんだった。 「ま、間宮さん!?」  俺は驚きながら窓を開けた。 「な、なんで……」 「お邪魔するわね」  間宮さんは俺の困惑などどこ吹く風というような感じで、颯爽と部屋の中に足を踏み入れた。 「ぬおおおおおいっ! く、靴っ! 靴ぬいでくれよ!」 「ああ、悪いわね」  と、まったく悪いと思ってないような口調で言いながら面倒くさそうに靴を脱ぐ。 「ま、間宮さん……な、なんで窓から……」 「外から昇れそうだったから」 「の、昇れそうだからって……」 「それに、こんな夜更けに女の子が玄関から来たら、あなたの家族も変に思うんじゃないかって心配してあげたのよ。だからわざわざ二階から来てあげたの」  間宮さんはなんか上から目線で言ってくる。でもまあ、確かにあの姉貴と母さんにこんなことが知られたら……や、やばすぎる事態になってしまうだろう。 「ど、どうして間宮さんが俺の家に……というか、なんで俺の家がわかったんだ?」 「嵐子からさりげなく聞き出したのよ。それで、嵐子が寝静まってからこっそり家を抜け出して、ここに来たわけ」  言って間宮さんは勝手に俺のベッドの上に座る。 「あなたも座ったら?」  と、間宮さんは自分の隣を手のひらでぽんっと叩いた。 「え? あ、ああ……」  俺もベッドの上に腰を下ろす。なんかすでに主導権を握られているような感じだった。  ……いったいなんだろう、この状況は。  なんで間宮さんは、わざわざ結野から俺の家を聞き出してまで、俺に会いに来たのか。  しかも、結野が寝静まってからこっそりと……  困惑しながら、間宮さんの姿を盗み見る。  細くて長い髪に、強い意志を感じさせる切れ長の瞳。それと相反するような、どこかあどけなく見えるふっくらとやわらかそうな唇。しなやかで優美な曲線を描くその肢体。ウエストなんて、ちゃんと内臓つまってますかと思うほど細い。  と—— 「砂戸くん」  間宮さんがゆっくりと首を振り、俺のほうを向く。 「突然お邪魔してごめんなさい。今日ここに来たのは……あなたに話があったからなの」 「は、話? 俺に?」 「そう。できれば嵐子には内密で、あなたとは一度ゆっくり話しておきたかったのよ」 「い、いったいなんの話を……」  間宮さんはじっと俺の顔を見つめると——  ほっそりとした白い左手で、俺の頬に軽く触れた。 「え……ちょっと……」 「ふうん……意外と整った顔立ちをしてるのね……」  間宮さんは切れ長の瞳で俺を見つめながら、そんなことを言ってくる。ドッドッドッ、と急に心臓の鼓動が速くなった。 「あ、あの……間宮、さん……?」 「でも、顔立ちなんて関係ないわ……だって……」  ぎんっ、と細められる両の瞳。急激に膨れあがる殺気。 「え?」  次の瞬間、間宮さんは右腕を大きく振り上げ—— 「——っ!?」  その尖った肘を、俺の頬に思いっきり突き刺した。 「もげるあああああああああああああああ——っっ!?」  強烈すぎるエルボー。  もんどり打ってベッドから落ちた俺は——一瞬で変態モードに移行した。 「あばっふっっ! あばぶっふうううううっっ! うへへーいいいイイイ——っっ!」  がばちょ、と飛び跳ねながら絶叫する。俺の中のマゾヒストが絶叫する。 「はあ、はあ、はあ、ゆ、ゆゆ、由美様っ! 由美様の一撃はすんばらしい出来映えでごさいましたあああああっ! はあはあはあはあ、Y、U、M、I、Y、U、M、I——ゆ、ゆゆゆゆ、ゆみ、ゆみ、由美たまぁ! ど、どうか、も、もも、もう一発すんごいのを、こ、ここ、小汚い変態給料泥棒であるクソタロウの顔面に——」  ドMの悦楽によって完全に我を忘れた俺は、飛びかかるようにして間宮さんに—— 「ふんっ」  ベッドから下りた間宮さんは、突進する俺をブリザードのような瞳で一瞥し、 「あまりにも……気持ち悪すぎるわね」  洗練された動きで四肢を翻し、一瞬で俺の背後を取り、俺の体をベッドの上に押しつけた。 「——っ!?」  うつ伏せに倒れる俺。その上に乗っかっている間宮さん。そして、 「握手したときにほとんど確信してたけど……やっぱり噂は本当だったみたいね」  と、忌々しそうにつぶやく。 「中学のときみんなが噂してた通り……砂戸太郎はドMの変態野郎ってわけか」 「はいいいいい……そうなんですう……」  俺はうへうへと怪しい笑みを浮かべながら言う。  間宮さんは背後から乱暴に俺の髪の毛を掴む。俺は首だけを動かし、なんとか間宮さんに顔を向ける。 「最近、嵐子と電話してたら、よくあなたの名前が出てくるのよ」 「お、俺のでしゅかあ?」 「ええ。……嵐子はどういうわけか、ドMの変態野郎であるあなたを気に入ってるみたいなのよね……信じられないことに……」  間宮さんの瞳が恐ろしいほど鋭い光を放つ。 「——っ!?」  こ、この視線は……やっぱり…… 「ああああああ、ここ、これは、昼間に感じた視線と同じ……もしかして、結野と遊んでるとき俺に殺意のこもった視線を向けていたのは……」 「そう、わたしよ」  ふん、と間宮さんは憎々しげに鼻を鳴らす。 「駅から出たら、駅前の広場で待ち合わせをしてたあなたと嵐子の姿を見かけたのよ。わたしはあなたと嵐子の関係を探るために、こっそりあとをつけたの。できるだけ離れて観察してたんだけど……視線と感情だけはごまかすことができなかったわ」  駅を出たら偶然結野の姿を見かけて——というのは嘘ではないが、それは俺と結野が映画館に行く待ち合わせをしていたときのことだったわけか。 「それにしても……今日のあれはなに?」 「え? あ、あれって?」 「ゲームセンターでのことよ」  言って、間宮さんはさらに視線を鋭くする。おおう、この視線だよぉ…… 「嵐子がゲスな男たちに因縁つけられてたときの、あなたの態度ってなによ? へこへこ情けなく頭なんか下げちゃって……見ててイライラしたわ」 「そ、そんなこと言われましても……」 「今日のあれは……認めたくないけど、デートよね?」 「ええーっと……」  まあ、デートと言えなくもないかもしれないけど…… 「嵐子が……あなたみたいな奴と……」 「…………」 「なんでよ……なんでこんな変態と……」 「…………」  変態ですみません。  間宮さんは苛ついた様子でため息をついたあと、 「ねえ……あなたは、嵐子のことをどう思ってるの?」 「え?」 「嵐子はあなたのことを……まあそれはいいわ。問題はあなたよ。あなたは、嵐子のことをどう思っているのよ? 答えなさい」 「どうって言われましても……」 「そう——黙秘する気なのね」 「い、いや……」  黙秘なんてとんでもない。ただ、どう答えればいいのかわからなかっただけだ。  俺は結野のことを…… 「仕方ないわね」  間宮さんは俺の体にまたがったままつぶやき、両手の指を開いたり閉じたりする。 「あなたみたいな変態の体に触るのは気持ち悪くてすっごく嫌なんだけど、今日だけは特別よ」 「……?」 「間宮流マッサージ術の神髄、あなたにも見せてあげるわ」 「ま、間宮流マッサージ術?」  問宮さんは俺の背中に両手を置いた。その瞬間。 「——!?」  俺の全身に電気が走った。  な、なんだこりゃ……なんだこりゃああああ…… 「あ……ふぅ……」 「ふうん……けっこう凝ってるわね……いろいろと苦労が多いのかしら?」 「は……うう……」  間宮さんの指先が俺の背中の筋肉に浅く突き刺さる。手のひらが優しく撫でる。腕を上げて肩の筋肉を伸ばし、首筋に手が添えられ、ああ、あああああ……これは…… 「き……きぃもちいいぃ……すんごくぅ……」 「当たり前よ。わたしを誰だと思ってるの?」  間宮さんの手が、指が、ときに肘や膝がくまなく俺の全身を這う。間宮さんに触れられた箇所の筋肉の凝りは完全に消え、そしてそこにゆるやかな快楽が生まれる。その快楽はゆっくりと全身に広がり……あああ、もうなにも考えられなくなっちゃう……  ドMの悦楽とはまったく質の違う、脱力系の快楽。な、なんですかこれは…… 「はあ……く……あふ……」 「ふふ……なんてだらしない顔をしてるのよ。しかも、女の子みたいな声を出しちゃって。あらあら、涎まで垂れちゃってるわ。そんなに気持ちいいのかしら?」  間宮さんが俺の耳元でささやいてくる。 「は、はいぃ……あふぅ……」 「じゃあ教えてくれる? あなたは、嵐子のことをどう思ってるの?」 「ゆ、結野のこと……」  間宮さんのマッサージによって脳みその中枢まで骨抜きにされた俺は、 「結野は……クラスメイトで……同じ部活で……」  黙秘することも嘘をつくこともできず、ただ思ったことを垂れ流す。 「……けっこう泣き虫で……笑顔がドキッとするほどかわいくて……」 「それで?」 「それで……ええっと……いつも気になっちゃうというか……なんとゆーか、やっぱりかわいいというか……ふええっと……」 「……あなたは、嵐子のことが好きなの?」 「ふぇ……? そりゃあ好きか嫌いかで言えば……もちろん好きだけどぉ……でも、ええっと……」 「……こんな状態でも煮え切らない男ね。気持ち悪い」  ふう、と背後から大きなため息。 「なるほど……自分でも嵐子のことをどう思ってるのか、よくわからないのね。自分自身のことなのに。情けない変態だわ。……まあ、普通の好意以上のものは抱いてるようだけど」  言って、間宮さんは俺の体から手を離した。 「もうダメ。無理。わたしの生理的に限界よ」 「あう……」  くてん、と俺はベッドの上に倒れている。 「ふん……嵐子がどう思ってるかなんて関係ない。あなたが嵐子をどう思ってるのかも同じ。あなたみたいな変態、嵐子にはふさわしくないのよ」  間宮さんは俺の背中の上に乗ったまま、独白のようにつぶやく。 「あなたみたいな変態なんかに……」  と、そのときだった。  部屋のドアが突然開く。ドアを開けたのは—— 「太郎ちゃ——んっ!」  姉貴、だった。 「太郎ちゃん、なんかヒマだから二人でエロティックお医者さんごっこでも……え?」  姉貴はぽかんとした顔でこちらを見つめている。  こちら——つまり、ベッドの上に横たわる俺と、その上に馬乗りになる間宮さんを。 「あ、あれ? ええーっと……」  姉貴は目を泳がせながらつぶやく。 「オ、オカシイナ……なんか、変な幻覚が見えちゃってるよ……さっきちょっとコーヒーを飲み過ぎちゃったからかな……」  カクカク震えながら、 「も、もも、もう一回やり直してみるよ……ダ、ダッテ、コレハゲンカクダカラ……ソウニキマッテルカラ……」  と言って、姉貴は一度ドアを閉める。  二秒ぐらい経ったあと、姉貴は再びドアを開けた。 「——おう、姉貴。どうした?」  ベッドの上で漫画を読んでいた俺は、そう声をかけた。 「た、太郎ちゃん?」  姉貴はびっくりした顔で、きょろきょろと部屋の中に視線を巡らせる。 「いま……この部屋に誰かいなかった? 女の子とか……」 「はあ? なに言ってんだよ姉貴。幻覚でも見たんじゃねえか?」 「幻覚……」  姉貴は呆然とつぶやいたあと、にぱっと笑顔を広げ、 「そ、そうだよねっ! やっぱりあれは幻覚だったんだよっ!」  うれしそうに言うと、ベッドにいる俺に飛びついてきた。 「ふぇ——んっ! 太郎ちゃん、さっきね、すっごく怖い幻覚を見ちゃったの! なんかね、知らない女の子が太郎ちゃんの上にエロい感じで馬乗りになってて……」 「へ、へえ、それは奇妙な幻覚ですなぁ。もしかすると幽霊でも見たんじゃないか?」 「そうかもしれないよ。よく思い出してみれば、なんかお化けみたいに怖い顔してたし。あんな恐ろしくて性格悪そうな顔、よっぽど現世に恨みがないとできないよー」  姉貴が言うと——  ベッドの下から、ドゴォンという打撃音が聞こえてきた。 「……あれ?」  姉貴がきょとんとした顔をして、目線を下げる。 「いまの音は、なにかな?」 「さ、さあ、なんだろうな……」  ま、間宮さん、頼むから静かにしてくれ!  間宮さんはいま——ベッドの下にいた。  姉貴が一度ドアを閉めた隙に、ほとんど強引に間宮さんをベッドの下に押し込んだのだ。怪しげなマッサージでへろへろになった体に鞭打って「もし間宮さんがいることが家族にバレたら命に関わるほどやばいことになる、頼むから黙ってベッドの下に隠れててくれ」と高速言語で言いながら。  バレたらやばい……バレたらやばいのだ…… 「えへへー……太郎ちゃんっ」  姉貴はぐりぐりと俺の胸に頬ずりする。 「太郎ちゃん……なんだか今日はちょっと優しいね」 「え? そ、そうか?」 「うんっ。だって、いつもだったら『急に抱きついてくるなっ!』って怒ってお姉ちゃんを乱暴に振り払うんだもん……でも、今日はそーゆーこと言わないからうれしいな……」  姉貴は、ほわぁ、と幸せそうな顔で俺の胸に顔を埋める。人差し指でちょんと俺の胸をつついたりしてくる。 「もしかして……」  上目遣いで俺を見上げながら、 「お姉ちゃんの愛に、やっと応えてくれる気になったのかな……?」 「い、いや……」 「うれしい。じゃあ——とりあえず、服を脱ぐね……」 「脱ぐなっ! とりあえず脱ぐなっ!」 「え? 服を着たままがいいの……? ならショーツだけ脱いで……」 「だから違うって言ってんだろっ! どこも脱がなくていいからっ!」 「そっか……まずはキスから、そういうことだね……」 「そういうことじゃねえよっ! なに言ってんだっ!」  そんな俺の叫び声に重なるようにして、ベッドの下からこんな声が聞こえてきた。 「う、うわ……なにこいつ、もしかしてドMなだけじゃなくて近親相姦まで……ド、ドン引きだわ……」 「え? 太郎ちゃん、なにか言った?」 「い、いや、なにも……」  あああああ、間宮さんがやばい誤解をしている…… 「あ、姉貴っ! 俺、これからちょっと地球温暖化問題について考えたいから、一人にしてくれないか?」 「ええー……」 「わ、わりいっ。その代わり、今日はいっしょのベッドで寝ていいから」 「ほんとっ?」  姉貴の顔がぱっと輝く。仕方がない、一刻も早く出て行ってもらうにはこう言うしかないのだ。 「や、約束だよっ! 絶対だよっ!」 「あ、ああ、約束だ」 「えへへ……今夜が楽しみだよー」  そして、姉貴は部屋を出て行った。  俺はベッドから降りると、隠れている間宮さんに向かって言った。 「ま、間宮さん、もう出てきていいぞ……」  間宮さんがのっそりとベッドの下から出てくる。 「この、社会のクズが」  立ち上がると、いきなりそんな言葉を吐いた。  あああああ、完全に犯罪者を見る目つきだよぉ……はあ、はあ、はあ…… 「ご、誤解なんだ間宮さんっ! あれは……」 「ひぃ——よ、寄らないでよっ!」  間宮さんに近づこうとして——足がもつれる。 「ぬおぉ!?」 「あっ!?」  足をもつれさせて倒れた俺は——間宮さんをベッドの上に押し倒してしまった。  数センチほどの目の前に、間宮さんの整った顔があった。 「…………」 「…………」  超至近距離で見つめ合う。間宮さんはびっくりしたように大きく目を見開いていた。偶然にも、俺の両手は間宮さんの手首を掴んでいる。まるで間宮さんを逃がさないように。密着した部分から伝わる女の子のやわらかさに、髪の毛から匂うシャンプーの香りに、俺は身動きができないほど動揺してしまっていた。  間宮さんの顔が激怒したように赤くなっていく。いや、本当に激怒してるのかも…… と、そのときだった。  部屋のドアが突然開く。ドアを開けたのは—— 「太郎さぁ——んっ!」  母さん、だった。 「太郎さん、なんかヒマですから二人でエロに特化した王様ゲームでも……え?」  母さんはぽかんとした顔でこちらを見つめている。  こちら——つまり、ベッドの上で密着している俺と間宮さんを。 「あ、あら? ええーっと……」  母さんは目を泳がせながらつぶやく。 「オ、オカシイデス……なんか、違う時空につながっちゃったみたいで……あり得ない平行宇宙が私の目の前に……」  カクカク震えながら、 「も、もも、もう一回やり直してみます……ダ、ダッテ、ココハチガウジクウダカラ……ソウニキマッテマスカラ……」  と言って、母さんは一度ドアを閉める。  二秒ぐらい経ったあと、母さんは再びドアを開けた。 「——ああ、母さん。どうしたんだ?」  蛍光灯の紐を相手にシャドーボクシングをしていた俺は、そう声をかけた。 「た、太郎さん?」  母さんはびっくりした顔で、きょろきょろと部屋の中に視線を巡らせる。 「いま……この部屋に誰かいませんでした? 女の子とか……」 「え? なに言ってんだよ母さん。違う時空にでも迷い込んだんじゃねえか?」 「違う時空……」  母さんは呆然とつぶやいたあと、ほっと安堵の笑顔を見せ、 「そ、そうですよねっ! やっぱりあれは違う時空だったんですよねっ!」 「あ、ああ、たぶんそうだよ」  俺はベッドの上に座りながら、言う。 「太郎さん……好きですっ!」  母さんは急に抱きついてきた。 「わっ!? い、いきなりなんだよ!」 「なんか、さっき見た違う時空の光景に嫉妬しちゃって……私の中でなにかが燃え上がってしまったんですっ!」 「な、なにを言って——」 「太郎さんが女の子を押し倒してるなんて……私も押し倒されたいですっ!」 「ほんとなに言ってんだよ母さんっ! 正気に戻れっ!」 「母さんじゃなくて智子《ともこ》って呼んでくださいっ!」 「呼ぶわけねえだろうがっ!」 「和子《かずこ》でもいいですから!」 「和子って誰だよ!?」 「母さんなんて他人行儀な呼び方は嫌なんです! とりあえず下の名前で呼んで欲しいんです! そして愛の言葉をささやいてほしいんです!」 「アホなことを言ってんじゃねえ!」  そんな俺の叫び声に重なるようにして、ベッドの下からこんな声が聞こえてきた。 「こ、ここ、こいつ……お姉ちゃんだけじゃなく母親にまで手を出して……キ、キモすぎて吐きそう……」 「え? 太郎さん、なにか言いました?」 「い、いや、なにも……」  あああああ、間宮さんがとてもやばい誤解をしている…… 「か、母さんっ! 俺、これからちょっと考えなければならない哲学的命題があるから、一人にしてくれないか?」 「ええー……」 「わ、悪いっ。その代わり、今日はいっしょのベッドで寝ていいから」 「ほんと……ですかっ?」  母さんがぽっと頬を赤く染める。 「約束ですからね……太郎さん……」 「ああ、約束だ……」 「うふふ……今夜は特別な夜になりそうです……」  そして、母さんは部屋を出て行った。  俺はベッドから降り、言った。 「で、出てきていいぞ、間宮さん……」  間宮さんがのっそりとベッドの下から出てくる。 「あなた、いますぐ手首を切りなさい」  立ち上がると、そんな言葉を吐いた。  あああああ、間宮さんはもはやいろんな感情を超越して無表情になっちゃってるよ…… 「だから誤解なんだって! あれは……」 「ほんと、お願いだから近寄らないでください。リアルに怖いです」  ううう、この誤解はどうやって解けばいいのだろう。誰か教えてください。 「ま、間宮さ——」 「ち、近寄るなって言ってるでしょう! ハッ!? ま、まさか!」  間宮さんは青ざめた顔で後ずさりながら、 「……も、もしかして、お姉ちゃんやお母さんだけじゃ満足できず、わたしまで手込めにしようとしているの!?」 「手込めって……」  間宮さんは体を震わせながら、 「ドM……近親相姦……異常性欲……こ、怖すぎるわ。あと、たぶん盗撮魔で痴漢常習犯でロリータコンプレックスなのね……」 「ちょ、ちょっと! なんか変態要素がどんどん増設されて——」 「あり得ない……あり得ないほど変態的な生き物だわ……」 「ま、間宮さん!」 「こ、ここはいったん引きましょう。こんな変態生物の巣の中にいたら、なにをされるかわからない……」  間宮さんはぶつぶつつぶやきながら、逃げるように窓から飛び出し、全速力で俺の家から離れていった。 「…………」  窓枠に手を置き、遠ざかっていく間宮さんの背中を眺めながら、俺は呆然としていた。  なんか最悪だ……いろんなことが最悪だ。  と—— 「太郎ちゃ——————んっっ!」 「太郎さぁ——————んっっ!」 「ぬおおっ!?」  姉貴と母さんが部屋に入ってきた。 「や、約束通り、今夜はいっしょに寝るんだよっ! ねねね、寝るんだよっっ!」 「た、太郎さんといっしょのベッドで……ベッドで……はあ、はあ、はあ……」 「ちょ——ちょっと落ち着け! 二人とも落ち着けえええええええええ!」  興奮しすぎて理性が脱線した姉貴と母さんにくちゃくちゃにされながら、俺は断末魔のような叫び声を上げた。  翌日のお昼過ぎ。俺は通学路をとぼとぼ歩いていた。 「相変わらずクソ暑いな……」  太陽は殺人的で加虐的な日差しを放っている。もし太陽の性別が女性ならこの日差しによって俺のドMは発動しまくっているだろう。  だが、今日はなんだか体の調子がいい。全身がとても軽く感じるのだ。たぶんこれは、間宮さんにしてもらったマッサージのおかげだ。 「あれは……すごかった……」  ぼんやりとつぶやく。間宮さんのマッサージはもはやマッサージとかいう次元を超えているような代物だった。彼女の指が触れた筋肉は一瞬で脱力し、弛緩し、そしてそこにゆるやかな悦楽の花が咲く。魔法じみた気持ちよさだった。 「それにしても……間宮さんはなにを考えてるんだろう……」  昨夜の間宮さんは俺がドM人間であるということを確かめたあと、マッサージによって骨抜きにされた俺に、結野のことをどう思ってるかなどと訊いてきた。なにやら間宮さんは俺と結野の関係を疑ってるようなのだ。 「べつに、俺と結野は付き合ってるわけでもないのに……」  だが。 『あなたは、嵐子のことをどう思ってるの?』  そんな間宮さんの言葉が、なぜか俺の脳裏に張り付いて剥がれなかった。  俺は結野のことを——  そのとき、俺の携帯電話が鳴った。相手は石動《いするぎ》先輩。  先輩は唐突に言った。 『ブタロウ。今日の部活は中止にするわ』 「え……?」 『嵐子がね、今日は部活休むって。なんか、遠くから来た友達の相手をしなくちゃならないとかで。でも、夕方からの夏祭りにはちゃんと行くって言ってたから、だったらもう昼間の部活は休みにしようってことになったのよ』 「はあ……あの、夏祭りってなんですか?」 『みちる姉《ねえ》の提案で、今日は夕方からみんなで近くの夏祭りに行くって、ちゃんと言ってあったでしょ?』 「……いえ、なにも聞いてませんけど」 『そう? じゃあ言うのをうっかり忘れてたみたいね。今日は第二ボランティア部のみんなで夏祭りに行くの。あんたもちゃんと参加しなさいよ。来なかったら殺す』 「…………」 『夏祭りには嵐子の友達も参加するんだって。なんか、その子があたしたちに会いたいって言ってるらしくって』  間宮さんも来るのか……そう考えるとちょっとブルーだった。あっちはなぜか俺のことを嫌ってるようだし、できればあまり顔を合わせたくない人である。 『じゃあ、五時に部室に集合だから。ちゃんと来なさいよ』  言って、先輩は電話を切ってしまった。 「……つーか、もっと早く連絡してくださいよ」  携帯電話に向かってつぶやく。桜守高校はもう目の前だった。  幸いなこと——かどうかはわからないが、今日はコンビニのアルバイトは入っていなかった。だからべつにかまわないといえばかまわないのだが……というか行かなければ殺されるので行かざるを得ないのだが……携帯のディスプレイを見ると、時刻はちょうど午後一時。  五時に集合か。家に帰ってまた学校に戻ってくるのは面倒くさい。さて、どうしよう。 「そうだ、今日は月曜日だから……」  月曜日は、料理部が活動している日である。  うちの学校の料理部は、夏休みのあいだは月曜日だけの活動となっている。その活動も自由参加で、みんなで適当に料理を作って適当に食べて終わり——と、料理部に所属している俺の親友、葉山辰吉が言っていた。 「辰吉んとこで時間をつぶすか」  料理部は顧問の先生も来ないしいつもユルい感じでやっているので、部外者がいても誰も気にしないから暇なときは遊びに来てくれと辰吉に言われていたのだ。いまがまさに暇なときだった。  部活は自由参加だが、真面目な辰吉は絶対に来ているはず。校門を抜けた俺は校舎に向かって歩いていった。  料理部が集まっているのは家庭科室。  俺はその家庭科室の扉に手をかけ、ゆっくりと横に滑らせた。  中にいるのは、金髪で背が低い男子が一人——辰吉だった。  いかにも不良ですといった外見をした辰吉は、俺の姿を見つけるとにかっと人なつっこい笑顔を浮かべてきた。 「おお、太郎。どうしたんだ?」 「ああ、ちょっと時間が空いたから暇つぶしさせてもらおうと思ってな。つーか……」  俺は家庭科室をきょろきょろ見回し、 「おまえだけか? ほかの部員は?」 「みんなもう帰ったよ。俺も片付けが終わったら帰るところだったんだ」 「そうだったのか」 「でもまあいいや。俺もおまえの暇つぶしに付き合ってやるよ」  辰吉は笑いながら、 「あ、そうだ。ちょうど材料も余ってることだし、クッキーでも作ってやろうか?」 「え? それはすげえありがたいけど……いいのか?」 「おう。任せとけ」  辰吉はキッチンに向かい、エプロンをする。  三十分ほど経ち——  辰吉の手によるクッキーができあがった。  大量に焼き上がったクッキーを大皿に盛ってテーブルの真ん中に置く。 「う、うお……すげえうめえっ!」  辰吉の作ったクッキーは、俺がいままで食べたクッキーの中で間違いなくベストワンの味だった。 「焼きたてのクッキーはうまいだろ?」 「ああ……マジでうまい」  ガツガツとむさぼるようにクッキーを食べる。ほんと、止まらないおいしさだった。うーむ、暇つぶしにここを選んだのは大正解だったな。  紅茶片手にクッキーをつまみながら、二人で他愛もない話に花を咲かせる。 「——そういえばさ」  昨日のことをふと思い出した俺は、辰吉に、 「昨日、間宮さんに会ったぞ」 「え……?」  辰吉の顔が驚きの色に染まる。 「間宮って……由美にか?」 「ああ。ちょっと結野といっしょにいるときにな、偶然会ったんだ。なんか夏休みになったからこっちに来ようと思ったらしい。結野に会いに来たって言ってたけど」 「へえ……そうなのか……」  辰吉はどこかぼんやりした顔でつぶやく。 「あ……この話題、まずかったか?」 「いや、そんなことねえけどな」  はは、と辰吉は笑顔を見せる。が、その笑顔は少しぎこちない。 「由美と話したりしたか?」 「え? あ、ああ、ちょっとだけ……」 「あいつ、変わった奴だったろ?」 「まあ……」  俺は少しためらってから、うなずく。 「なんか、いきなり結野にマッサージとかしだして……気持ちよさそうにしてる結野を眺めながらうっとりした顔して……」  さらにその夜、俺の家に忍び込んできたことは黙っておく。 「由美の奴……相変わらずだな」  と、辰吉は苦笑する。 「あいつはさ、間宮流マッサージ術の後継者なんだよ」 「間宮流マッサージ術?」  そういえば、間宮さんの口からもそんな言葉が出ていた。 「ああ。間宮流マッサージ術ってのはな、指圧マッサージ、タイ式マッサージ、英国式マッサージ、ドイツ式マッサージ、リンパマッサージとかヨガとか太極拳とか世界中のいろんなマッサージのいいところを組み込んで完成させた、最強の総合マッサージ術らしい」  総合マッサージ術……ってなに? なんか総合格闘技みたいになっちゃってるけど。というかヨガや太極拳はマッサージじゃないだろ。 「その間宮流マッサージってのは一子相伝でな、その後継者が由美なんだ」 「なぜ一子相伝にする必要が……」 「由美は間宮流でも十年に一人の天才と言われていて、由美が生まれたとき、当時ボケててほとんど言葉を発しなかったひいおじいちゃんが赤ちゃんだった由美の両手を見るなり一瞬だけ正気に戻って『こ、これは神の指先じゃああああああああっ!』って叫んだというエピソードもあるらしい」 「それはほんとに正気に戻ったのか?」  ボケたままだったんじゃないですか? 「由美は幼い頃からマッサージの英才教育を受けてるから、神がかってるくらいにマッサージがうまいんだよ。そんで、由美は自分のマッサージで理性をなくすぐらい気持ちよくなった奴を眺めるのが好きなんだ。自分のマッサージで泣きそうなほど気持ちよくなっちゃった奴を眺めてるとすごく快感で興奮するとか言ってたな。特にかわいい女の子が好みで、かわいい女の子を見るとマッサージしたくて我慢できなくなって意識がどこかに飛んでいっちゃうらしい」 「…………」  確かに、結野にマッサージをする間宮さんは恍惚としていた。 「付き合ってた頃は、俺もよく骨抜きにされたよ……」  懐かしそうに両目を細めながら、辰吉はつぶやく。 「あいつってさ、けっこう嫉妬深いというか独占欲が強いというか疑り深いというか……ちょっと俺が隠し事なんかするとすぐ浮気したんでしょとか言ってマッサージで尋問しやがるんだ。あいつのマッサージで骨抜き状態にされたら、脳みそがバカになっちゃって、嘘とか隠し事とかできなくなるんだよ……ほんと、すげえマッサージだった」 「そ、そうなのか」  確かに、あのマッサージは人間の理性的な部分を崩壊させるほどの威力がある。  頬杖をついて遠くを眺めるような表情をしている辰吉に、俺は尋ねてみる。 「……前に、おまえと間宮さんは自然消滅したとか言ってたよな?」  間宮さんは中学の卒業と同時にこの町を離れてしまった。それからしばらく遠距離恋愛が続いていたが、いつの間にか自然消滅してしまった。以前、辰吉は俺にそう言った。 「ああ……」  辰吉は少し言いにくそうに、 「確かにそう言ったけど……でも、本当は俺がフラれたみたいなもんなんだ」 「え? どういうことだ?」  訊くと、辰吉は少しうつむき加減で、 「由美が遠くに転校してからも俺たちは付き合いを続けてたんだけど……ある日、急に由美に連絡がつかなくなったんだ」 「連絡がつかなくなった?」  辰吉は無言でうなずく。  何度も電話したが、いつも留守電で一度も出てくれない。メールも数え切れないほど送ったが、すべて無視。もちろんあちらからの電話やメールも途切れた。どうしてなのか原因はわからない。だが、ある日を境に、由美は俺からの連絡を拒否するようになったと、辰吉は淡々とした口調で言った。 「そんでさ、俺も電話とかメールを送ったりするのに疲れちまって……俺たちの付き合いは終わったんだ」 「そうだったのか……」  確かに「別れよう」と告げられたわけではないので自然消滅と言えなくもないが…… 「そうなった原因とかはわからないのか?」 「まーったく、さっぱりわかんねえ。マジで」  辰吉は静かにため息をつき、 「ほんと、なんで連絡をくれなくなったのか……いまでもさっぱりわからねえんだ」  と、少し寂しそうにつぶやいた。基本的に陽気な辰吉がこんな表情をするのは珍しい、そう思った。いま辰吉が感じている寂しさや苦しさは、いまの俺にはまだわからない種類のものなのだろう。たぶん。  俺はその横顔を見つめながら、 「おまえってさ……もしかして、いまでも間宮さんのこと好きなんじゃねえのか?」 「…………」  辰吉はしばらく無表情だった。そして、 「……わからねえ」  ふう、と息を吐く。 「昔は好きだった。連絡がとれなくなって、フラれたんだとわかって、すげえショックだった。でも、いまでも好きかと言われたら……わかんねえんだ。自分のことなのになんだよと思うかもしれないけど、ほんとにわからねえ。でも、あいつのことを考えると、懐かしくなったり悶々とした気分になったりつらくなったり……ううむ、なんだろうな……好きなのか嫌いなのかはわからないけど、とにかく、あいつのことをすんなり忘れることはまだできそうにはない——そんな感じかな」  それから——  なにやらちょっとした用事があるから帰らなければならないという辰吉と別れ、俺は校舎を出た。  時刻は五時ちょっと前。いい感じの時間だった。俺は部室に戻った。  部室の扉を開け、中に入ると—— 「ああ、ブタロウ。早いわね」  部室にいた先輩が俺に声をかけてくる。 「…………」  俺は目を丸くしながら、先輩の姿を眺めていた。  石動先輩は浴衣姿だった。  ピンク地に桜柄のかわいらしい浴衣に紫色の帯をしめ、素足に下駄を履いている。髪も普段はしないアップにしていて、まぶしいほど白いうなじが色っぽかった。と、というか…… 「が……う……あ……」  浴衣姿の先輩は、息を呑むほど、というか息ができないほど——綺麗だった。  一瞬、魂が持って行かれそうになったほどの美しさ。不意打ち気味にこんな姿を見せられたら、ほんとにやばいですよマジで。  部室の入り口で硬直してしまった俺を、先輩は訝しげに眺めながら、 「……なによ、ブタロウ。なに固まってんの?」 「うむ。どうやら砂戸太郎は、美緒のあまりのかわいらしさに絶句しているらしいな」  と言ったのは、先輩のすぐ後ろにいるみちる先生だった。みちる先生も浴衣姿。しっとりした黒地の浴衣が、大人の美しさを醸し出している。  みちる先生の言葉を聞いた先輩は、 「——へえ」  つぶやき、すいっと俺に近づいてきた。ふいの接近に俺の鼓動が大きく跳ね上がる。  先輩はおもしろそうな顔で俺を見上げると、 「そうなんだ。あんた、あたしのかわいさに参っちゃったんだ」 「ち……」  違う——と言いたかったのだが、残念ながら命令通りに口が動いてくれなかった。代わりに顔面がすごい勢いで熱くなっていく。  先輩は、その白くてほっそりした右手で俺の左手を優しく握った。唐突に。 「——っ!?」 「ねえ……あたしってそんなにかわいい?」  きゅっと手を握ったまま、上目遣いで訊いてくる。 「え……う……」 「かわいいって言いなさい。これは命令よ」  囁くような、甘えるような声で、そんなことを言ってくる。  完全に脳みそが痺れてしまった俺は、震える声で、 「え、えっと……か、かか、かかか、かわいい、です……」 「ほんと?」 「は、ははは、はい」 「……うれしい」  先輩は淡いほほ笑みを浮かべる。そして、 「かわいいって言ってくれたお礼に……キスしてあげよっか……?」 「へひっ!?」  変な声が喉から漏れる。せ、せせせんぱい、なにを言って……ゆゆゆ、浴衣姿でなにを言って……いや浴衣は関係ないけど、どどど……  俺をじっと見上げる二つの瞳。鼓動が危険なほどに加速していく。心臓が胸の中で破裂しそうだった。 「美緒、からかうのはそれぐらいにしておいてやれ。砂戸太郎が失神しそうだ」 「そうね。これぐらいでやめといてあげるわ」  先輩はいたずらっぽい口調で言うと、手を放し、あっさり俺から離れた。 「た、たすかった……」  ふいー、と俺は大きく息を吐く。いまので寿命が五年は縮んだな。絶対。  俺は何度か深呼吸してからみちる先生に顔を向け、 「……みちる先生。夏祭りに行こうと提案したのは、石動先輩の浴衣姿が見たかったからですね?」 「美緒だけではないけどな」  と、みちる先生が言ったとき——  背後にあった部室の扉が開いた。  そこにいたのは——結野と間宮さん。  二人とも浴衣姿だった。  結野は紺色の地色にうさぎ柄の浴衣、赤い帯をしめている。手には小さな巾着袋を持っていた。間宮さんは水色地に百合の花を散らした浴衣。そして髪型をポニーテールにしている。 「…………」  美少女二人のお美しい浴衣姿に、俺はまたもや言葉を失った。 「あ……」  俺の視線に気づいた結野が、照れたように頬を赤らめながらうつむく。……認めよう。かわいすぎる。というか浴衣ってのはこんなに破壊力のある衣服だったのか。ああああ、やっと収まった心臓の鼓動がまた…… 「——っ!?」  殺気が俺の体を縛り、速くなった鼓動が凍りついた。  見ると、間宮さんが十代の乙女とは思えないほどの殺気を視線に込めながら、俺を激しく睨みつけていた。お、おおお、浴衣美人の睨みは一味違う……はあ、はあ、はあ…… 「……ふんっ」  間宮さんは苛ついた様子で鼻を鳴らし、俺から視線を外した。……やっぱり俺は問宮さんに嫌われているらしい。  間宮さんは石動先輩やみちる先生がいるほうに体を向けると、落ち着いた笑みを浮かべ、 「こんにちは、第二ボランティア部のみなさん。わたしは嵐子の幼なじみの間宮由美です。今日は——」  言葉が途中で止まる。間宮さんはそのまま動かなくなった。  いったいどうしたのだろう。間宮さんは部室の奥のほうをどこか呆然とした表情で凝視していた。  その視線を追うと——  浴衣姿の、石動先輩がいたのだった。 「嵐子……」  先輩をじっと見つめたまま、隣に立つ結野に声をかける。 「なに?」 「あの人が……あなたの話によく出てくる、石動美緒先輩?」 「え? うん、そうだけど……」 「そう……」  間宮さんは熱に浮かされたような表情で、 「かわいい……なによこの子……信じられないくらいにかわいい……」  そんなことをつぶやいたあと、さらに囁くように—— 「あの子に、マッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージしたいマッサージ……」  間宮さんはわきゃわきゃと指先を動かしながら、きょとんと首をかしげる石動先輩にふらふらと近づいていく。そして先輩の背後にスイッと回った。結野が「あっ!」と声を上げる。  間宮さんの神の指先が先輩の体に触れる。と—— 「え……?」  先輩の困惑したような声。 「ちょ、ちょっと……なに、これ——あ——」 「かわいい……あなた、すっごくかわいい……」  間宮さんはハァハァ息を荒げながら、後ろから先輩の体をマッサージする。腕を、肩を、背中を、腰を、おなかを、首を、間宮さんの細くて長い指が丹念に這い進む。 「んん……あぅ……ら、らめ……」 「気持ちいい? ねえ、気持ちいいでしょう?」 「はぁ……んぁ……くぅん、ん……」  全身をぴくぴく震わせる石動先輩。内股で膝はガクガク揺れ、頬は赤く上気し、瞳には泣き出す寸前みたいに涙がたまり、力なく半開きになった唇からはかわいらしい舌先が覗き……なんとゆーか、ちょっとエロティックだった。先輩に負けず劣らず、背後に立つ間宮さんも恍惚とした表情を浮かべている。そしてそんな二人の様子をデジタルカメラで撮っているみちる先生は本当にどうしようもない人だと思いました。 「もっと、もっと気持ちよくさせてあげるね。間宮流の名にかけて……」 「……ああっ! んふぅ、く……や、やめ……」 「あら? あなた、胸がちっちゃいのね……じゃ、じゃあ、わたしが胸が大きくなるツボを押してあげる。あ、ああ、あと、おっきくなるように胸を揉んで……ハァハァ……」 「……んああっ! は、はっ、も、もう……あぅ……んん! ん……」 「ちょ——ゆ、ゆゆゆ由美っ! なんてことしてるのよっ!」  結野が慌てて先輩から間宮さんを引きはがす。先輩はくてんと床の上に座り込んでしまった。 「ゆ、由美っ! 美緒さんにちゃんとあやまりなさいっ! ……み、美緒さんごめんなさいっ! 由美ったら、綺麗でかわいい子を見るといつもこんな感じで……」  結野は申し訳なさそうな顔で頭を下げる。 「はあ、はあ……ううう……」  石動先輩はまだ体に力が入らない様子だったが、なんとか間宮さんを睨みつけ、 「……あ、嵐子の友達だから今回だけはゆるしてあげるけど、これが赤の他人なら十五針は縫うことになってたわよ……」  と、怖いセリフを口にする。 「ご、ごめんなさい。わたしとしたことが、我を忘れてしまったわ」  間宮さんは言う。確かに我を忘れすぎです。  先輩は少し警戒するような感じで間宮さんを見ている。 「これで全員そろったな。じゃあ行こうか」  と、みちる先生。  俺たちは学校から出て、夏祭りの行われるという桜守神社に向かった。 「ここが桜守神社か……」  学校から歩いて十分ほど。そこに桜守神社はあった。  祭りが行われている境内に入っていく。金魚すくい、射的、綿飴やリンゴ飴などなど……様々な屋台が並び、祭りを彩っている。祭り特有の華やかな雰囲気に、自然と俺たちの足取りも弾みだす。 「でも、思ったより混んでないですね」  と、俺は隣にいるみちる先生に言う。 「ああ。じつは、ここから数駅離れたところで有名な花火大会があってな。ここの祭りはその花火大会と開催日がかぶっているから、そんなに混雑したりしないんだよ。たいていの人は花火大会のほうに行ってしまうからな」 「へえ、そうなんですか」 「だから、この神社の祭りだと、嵐子も来やすいんじゃないかと思ったんだ」 「え?」 「祭りというのはけっこう混雑してしまうものだろう? だが、このぐらいの混雑の祭りなら、注意していればほかの客に肩をぶつけられたり触れられたりすることはないはずだ。だから、男性恐怖症の嵐子も安心して祭りを楽しめると思ったのだ」 「へえ……そこまで考えてたんですね」 「ああ。だが、本当なら嵐子に花火大会の花火を見せてあげたかったのだがな。あそこの花火はなかなかのものだから」  俺とみちる先生の少し前を、結野と石動先輩と間宮さんが並んで歩いている。結野を真ん中にして。たぶんあの配置も、二人がさりげなく結野を気遣った結果なのだろう。  結野はさっき買った綿飴を食べながら、楽しそうな笑顔を見せていた。その笑顔を眺めていると、自然と俺の頬もゆるんでしまう。 「ブタロウ! みちる姉! 金魚すくいっ! 金魚すくいやるわよっ!」  先輩はこちらに振り向き、にかっと笑う。  俺たちは横に並んで金魚すくいをやることにした。  金魚すくいか……そういや、あんまやったことないな。  屋台のお兄さんからすくい網を受け取り、それを水槽の中につける。 「う、うおっ! やばい、もう破けそう……」  すくい網をそっと金魚に近づけ、下からすくいあげる。  だが—— 「ぐわっ! や、破れちまったっ!」 「あたしもよ……」  隣に、仏頂面の石動先輩。破れたすくい網を恨めしそうに眺めている。 「俺も先輩もゼロ匹か……」  なんて情けない結果なんだ。  ほかの人はどうなんだろう……みちる先生は二匹、間宮さんは一匹か。結野は…… 「うおっ!?」  びっくり仰天だった。  すくい網を持つ結野の右手が神速で閃く。微塵の飛沫《しぶき》も立てず水の中に入っていった網が、電光石火の動きで金魚を下からすくい上げた。宙を舞った金魚が、結野が左手に持つおわんに着水。  見てみると、結野のおわんは金魚であふれかえっていた。 「ゆ、結野……」 「えへへ……昔から、金魚すくいだけは得意なの」  顔をほころばせ、結野は言う。……すげえ。いまの動き、神業だった。  石動先輩は心の底から感心した顔をして、 「すごいわね、嵐子……ちょっとあたしに教えて」 「いいですよ。では、まず網の持ち方からです」  と、結野先生の金魚すくい講座がはじまった。  結野の言うとおりにすると、確かに金魚がとりやすくなった。さすがに結野ほどの境地にはたどり着けないが。でも、すくい網に裏表があるなんてはじめて知ったな。  みんな順調に上達していったが、石動先輩だけは…… 「ふぐぐぐぐぐぐぐぐ……」  先輩だけが、一匹も獲れていなかった。 「なんでよ……なんで獲れないのよ……」  なんか、泣きそうになってる。 「金魚のくせに……金魚の分際で……このあたしの網から逃げるなんて……」 「み、美緒さん落ち着いてっ。もう一回やってみよ」  先輩はもう一度チャレンジする。が、大事なところで無駄な力が入ってしまうのか、先輩の持つすくい網は金魚をすくおうとしたところでいつも破けてしまっていた。 「金魚風情が……金魚ごときが……ブタ金魚が……」  先輩の殺気を感じたのか、水槽の中の金魚たちは先輩の前から離れていってしまう。うん、その気持ちはよくわかるぞ。 「こうなったら手づかみで……」 「ダ、ダメですよ美緒さん! それはすくったことになりませんから!」 「だって……」 「大丈夫ですよ。絶対に獲れますから」  結野はにこっと先輩に笑いかける。なんか、どっちが年上かわからないな…… 「うん……」  先輩はこくりとうなずき、すくい網を手に取る。  すくい網を持つ先輩の手に、結野の手が添えられる。 「美緒さん、まずは標的を見定めることからです。小さくて、あんまり動きが速くなくて、水の表面にいる子を狙うんです」 「うん」 「それでですね、網を斜めにして水中に入れて……網を水に濡らすときは一気に全面を濡らすんです」 「こ、こう?」 「そうです。そうやって、あんまり金魚を追いかけすぎないようにしながら、狙った金魚の動きを予測して……金魚の気持ちになって……」 「…………」  先輩はすくい網と金魚を睨むように見つめながら、小さな唇をきゅっと引き結んでいる。 「まだですよ、まだ……」 「…………」  先輩の狙っている金魚が、すくい網の上で静止する。 「……いまです!」 「——っ!」  先輩はスッとすくい網を上げた。  金魚が乗っている。すくい網の上に金魚が乗っている。  だが、乗っているだけではすくったことにならない。すくい網はいまにも破れてしまいそう。先輩は金魚をおわんに移そうとすくい網を移動させる。が、そのとき、無情にもすくい網が破れて金魚が落下——  落下したのだが、金魚が落ちたのは、先輩が左手に持つおわんの中だった。  俺は肺にためていた息を吐き出す。かなりギリギリだったが…… 「獲れた」  先輩は、ぽつりと言った。 「金魚、獲れた」  どこか呆然とした様子で、先輩はおわんの中の金魚を見つめている。  次の瞬間、先輩は大きく目を見開き、 「と、れたっ! 金魚とれたっ! あ、ああ、嵐子! とれた! ほ、ほらっ!」 「はい。よかったですね、美緒さん」 「うんっ!」  本当にすごくうれしかったのだろう、先輩は我を忘れるほどはしゃいでいた。金魚の入ったおわんを両手で持ち、みちる先生や間宮さん、屋台のお兄さんや見知らぬ客にまで、自分の獲った金魚を見せびらかしている。 「ブ、ブタロウ! ほらっ! 金魚とったよっ!」 「はい。すごいですね、先輩」 「へへ……」  先輩は満面の笑顔を見せている。ほんと、小さな子供みたいだった。  そんな先輩を、みちる先生が優しげな瞳で眺めていた。  俺は少しどきっとしてしまった。あんな優しい顔をするみちる先生、いままで見たことなかったから。  ——金魚すくいの屋台から離れた俺たちは、適当に屋台を覗きながら歩いていた。 「ん?」  前方から、どこかで見たことあるような人物が歩いてくる。  濃紺地に薔薇柄の入った浴衣を着た女性だった。長い黒髪を優雅に揺らし、祭りに来ている男性たちの視線を一身に浴びながら涼しげな瞳で屋台を睥睨《へいげい》するその女性は……つーか女性じゃなくて…… 「あら?」  彼女——いや、彼が俺たちに気づいた。右手を口元に当てながら、 「オーホッホッホッホッホッ! 誰かと思えば、第二ボランティア部の庶民集団ではございませんこと? 相変わらずの貧相オーラを発散させていましたからすぐにわかりましたわよ! それに約一名、胸が内側にえぐれているというたいそう珍しい貧乳女子がおりますものね!」 「…………」  こいつは俺の親友の辰吉だった。正確に言えば、辰吉が女装した姿だった。辰吉には女装癖という変態的な趣味があるのだ。  普段の辰吉はとてもいい奴なのだが、女装するといまみたいな迷惑きわまりない貴族人格が出てきてしまう。こっちの人格の辰吉は本当に厄介な奴だった。 「ですが今宵のあなたたちはとても運がよろしいですわ! なぜなら、真夏の太陽よりも華やかに輝くエクセレント貴族であるこのわたくしの悪魔も土下座してひれ伏すような美しすぎる浴衣姿をその貧乏眼球に——」  そこで、辰吉の声がとぎれた。  右手を口元に当てたまま、辰吉の動きが停止する。 「…………」  辰吉は、ある一点を凝視していた。  その視線の先にいるのは、間宮由美という名前の女の子。  辰吉の元彼女だった女の子だ。 「…………」  女装辰吉の頬を汗が伝う。  間宮さんは——ぽーっとした表情を浮かべていた。 「うわ……すごいわたし好みの美少女だわ。マ、マッサージしたい……」  指先をわきわき動かし、微かに息を荒げながら辰吉に近づいていく間宮さん。  彼女が辰吉の体に触れる——より一瞬早く。  ぐわし、と俺の腕を掴んだ女装辰吉は、そのまま猛ダッシュで間宮さんや石動先輩たちから離れた。 「ぬおおおおおおおお!?」  辰吉は俺の腕を掴んだまま、暴れ馬のように激走する。 「お、おい辰吉! 腕がいてえよっ!」  祭りの喧噪から離れた脇道に入ると、辰吉はやっと止まってくれた。 「ど、どういうことですのっ!?」  辰吉はくわっと俺を睨みつける。 「どういうことって……」 「どうして、由美がここにいるのでして!?」 「ああ……なんか、間宮さんが俺たちに会いたいみたいなことを言ってたらしくて、そんでいっしょに夏祭りに行くことに……」 「…………」 「つーか辰吉、なんでおまえがここにいるんだよ?」 「かわいい浴衣を買ったので、お祭りに着てきたかっただけですわ。下々の者どもにこのわたくしの美しすぎる浴衣姿を披露しようと思ったのでしてよ。でも、まさかあなたたちが……というか由美がいるなんて……」  辰吉は露骨にうろたえている。女装辰吉がこんな態度を取るのは珍しい。 「そっか……おまえ、間宮さんには女装のこと言ってないんだな」 「そうですわ……さすがに言えませんでしたのよ……」  以前のこいつは、女装のことをかたくなに隠していたのだ。親友の俺にさえなかなか言えなかったぐらいなのだから。最近はもう開き直った感じがするけど。 「やっぱ、元彼女に女装のことがバレるのはちょっとキツいか?」 「そうですわね……やっぱりキツい気がしますわ……ほかの人間ならともかく、由美には……」  辰吉は虚ろな目でつぶやく。  と—— 「へえ……そういうことだったの……」 「うおっ!?」 「なっ!?」  突然の声に、俺と辰吉はびっくりして後ずさる。  そこにいたのは——石動先輩だった。 「せ、先輩っ!? いったいいつの間に……」 「あんたたちが逃げるように走り去っていったから、気になって追っかけてきたのよ」  先輩はにやにや笑みを浮かべている。……すんごい悪い顔だ。 「話はぜんぶ聞かせてもらったわ……そういえば前に嵐子が言ってたわね。親友で幼なじみの由美は、葉山の元彼女だって……うふふふふ……」  先輩は辰吉のそばに近づく。辰吉の体がびくりと震えた。  そして、耳元で囁くように、 「あんたの女装のこと……バラしちゃおっかなぁ〜。あの由美って子にバラしちゃおっかなぁ〜」 「な——!? そ、そんなことゆるしませんわよ!」 「ゆるしませんわよ? なにそれ? なんであたしがあんたにゆるしてもらわなきゃならないの? ねえ、なんで?」 「ぐ……」 「バラさないでください、お願いします、でしょ?」 「…………」 「早く言いなさいよ、お願いしますって。もちろん土下座しながらね。全裸で」  辰吉は——  両腕を組み、ぷいっと石動先輩から顔を逸らし、 「ふんっ! 貴族のわたくしがあなたのような愚民に頭を下げることなんてあり得ませんわっ! バラしたければバラせばいいですわよ!」  と、はっきり言い放った。 「ほほう……」  先輩は感心したようにつぶやき、 「いい度胸ね。では早速バラしてくるわ」  言って、くるっと辰吉に背を向ける。  その瞬間、辰吉の瞳がぎらりと光った。 「キエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ————ッ!」 「な——!?」  辰吉が、背中を見せた先輩に飛びかかった。ぎしぎしと先輩の首を絞めながら、 「そんなこと絶対にさせませんわっ! あなたにはここで物言わぬ屍になっていただきますわよっ!」 「て、てめぇ——」  油断したのか、辰吉の腕は完璧に先輩の首にキマっている。  これは辰吉優勢か——と思いきや。 「げふっ!?」  石動先輩が後ろに向かって頭突き、それをまともに喰らった辰古は思わず両腕を放してしまう。先輩の小さな体が独楽《こま》のように回転し、 「どりゃああああああああああああ————っっ!」 「こぼおおおお——っ!」  先輩の後ろ回し蹴りを思いっきりみぞおちにもらった辰吉は、口からなにかを吐き出しながら地面に倒れた。 「このオカマ野郎がっ! 乙女にいきなり抱きつくなんてなに考えてんのよっ! 死ね、死んで詫びれこの連続婦女暴行魔が!」  先輩の鬼のようなストンピング。足蹴にされた辰吉は八割方ぐらい物言わぬ屍と化していた。なんてうらやま……いや、かわいそうなんだ。  そんな修羅場に、みちる先生と間宮さんが駆けつけてくる。 「君たち。いきなり走り出さないでくれ。……というか、なにがあったんだ?」  と、いつもの無表情でみちる先生。 「ふんっ。こいつがいきなり襲いかかってきたのよ」 「ああ……ボロボロなあなたをマッサージで癒したい……」  グロッキー状態の辰吉を眺めながら、間宮さんがつぶやく。  俺はきょろきょろ辺りを見回し、 「あれ? 結野は?」 「え……?」  間宮さんがハッと振り返る。もちろんそこには誰もいない。 「嵐子……? そんな、さっきまではちゃんと着いてきてたのに……」  そのとき俺は、屋台が並ぶほうがなにやらざわついていることに気づいた。  嫌な予感がした俺たちは、立ち上がれない様子の辰吉をその場に残して来た道を戻る。  提灯《ちょうちん》の明かりが照らす境内。屋台が並ぶ通りの一画に人だかり。 「ゆ、結野……?」  その人だかりの真ん中、ぽっかりと空いたスペースに——結野はいた。  結野は祭りの見物客の視線を一身に集めながら、そこに立っている。  彼女の目の前に、三人の若い男性がいた。  男性の一人は地面に尻餅をつきながら、結野を見上げている。 「…………」  結野は——  自分の右手を抱きしめるようにして、顔を真っ青にしていた。  全身を震わせながら、焦点の合っていない目で、どこか茫然自失とした様子。その大きな瞳には涙が潤んでいて……い、いったい、なにがあったんだ?  俺たちは人だかりを掻き分け、急いで結野のそばに向かった。 「嵐子っ!」  間宮さんが結野を呼ぶが、彼女は顔を上げることもせず、ただただ震えていた。  地面に尻餅をつく男性は、頬を触りながら顔をしかめている。  もしかして……  結野が、彼を殴ってしまったのか……? 「なんだよ、おまえら?」  男の一人が、そんな声を上げる。 「彼女の友人だ」  と、みちる先生が静かな口調で言う。 「事情を聞きたい。なにがあった?」 「なにがあったって……」 「そいつが、いきなり殴りかかってきたんだよ」  尻餅をついていた男性が立ち上がり、言った。 「そいつが一人でいたから、俺たちは声をかけたんだよ。でもそいつ、俺たちがなにを言ってもだんまり決めこみやがって……それで、俺がそいつの肩に手を置いたら……」  結野が彼を殴ってしまった。大勢の人間がいる目の前で—— 「まったく、いきなり殴りかかってくるなんてなに考えて——」 「黙れ」  と、底冷えのする声で言ったのは、間宮さんだった。 「あ?」 「女性の体に無断で触るなんて、そんなのは殴られても仕方のない行為よ。アメリカなら即座に訴えられているわ」 「はあ? おまえなに言ってんだ? つーか訴えたいのは俺のほう……」  そこまで言った男性が、「うっ……」とたじろいだ。  鋭利な殺気の込められた間宮さんの瞳、その体から噴出する恐ろしいまでの怒気に、年上であろう三人の男たちは完全に呑まれていた。 「うっとうしいから、どこかに消えなさい」 「な、なんだと……おまえ……」  さらに、間宮さんだけではなく—— 「消えろって言ってんのが、聞こえないの?」  石動先輩までもが、加わってしまう。  小さな体を何倍にも大きく見せる、殺意としか言いようがないほどの濃密な気配。普通の生物なら、それがどんなに危険なものか本能で察知できるだろう。 「三秒以内にあたしたちの視界から消え去りなさい……死にたくなければ」 「——ひっ!」  恥や外聞を気にする余裕もなかったのだろう、男たちは俺たちに背を向けると、全速力でこの場から去っていった。……少しだけ、気の毒に思ってしまう。 「嵐子……」 「ゆ、由美……」  ようやく間宮さんの言葉に応えた結野が、震えながら言う。 「嵐子……大丈夫?」 「こわかった……こわかったよぉ……」  つぶやきながら、結野は間宮さんにぎゅっと抱きつく。 「嵐子……」  間宮さんは、そんな結野の体を優しく抱きしめてあげていた。  まだざわめきの残る人だかりを、石動先輩が鋭く一睨み。人だかりは慌てて散っていった。  俺たちは結野を連れてひと気のない境内の端に移動した。華やかなざわめきから離れた薄暗い場所で、結野が落ち着くのを待つ。 「みんな、ごめんね……もう大丈夫だから」  と、周りで見守っていた俺たちにほほ笑みを向ける。 「結野……ほんとに大丈夫か?」 「うん」  俺の言葉に、結野は小さな動きでうなずく。 「わたし足が遅いし鈍くさいし、人通りも多かったからみちる先生と由美の背中を見失っちゃって……そんなとき、いきなり知らない男の人に触られたから、ちょっとパニックになっちゃったの。ほんと、ダメねわたしって。あの人たちにも悪いことしちゃったかな。だって、由美も美緒さんもすっごく怖い顔してたんだもん」  場の雰囲気を明るくしようとしてか、結野はわざと冗談っぽいことを言う。だが、その両膝はまだ微かに震えていて—— 「……嵐子っ」  間宮さんが、ぎゅっと結野を抱きしめる。 「由美……」 「…………」 「ほんとにもう大丈夫だから。ね?」 「…………」  間宮さんは結野を抱きしめたまま、つぶやくように、 「やっぱり、ダメなのよ……ここじゃ、無理なのよ……」 「え?」 「ダメなの……ここじゃ、嵐子はいつも傷ついて……」 「由美……?」 「…………」  間宮さんは無言で結野から離れると、静かな表情で俺たちを見回した。  間宮さんはゆっくりと息を吸うと—— 「わたし……第二ボランティア部のみなさんに言わなければならないことがあります」  と、静かに告げた。 「今日、本当はその話をするために、みなさんに会いに来たんです」 「…………」  結野を含め、皆が訝しげな顔で間宮さんを見つめている。俺たちに言わなければならないこと? 「話って……由美、それってなんのこと?」  結野が首をかしげる。 「嵐子は……」  間宮さんは、強い意志を感じさせる決然とした表情で—— 「嵐子は、第二ボランティア部を……桜守高校を辞めます」  と、言った。 第三章 そして彼女は勝負をふっかけてきた  桜守高校を辞める? 結野が? それはいったい…… 「え……?」  というつぶやきを漏らしたのは、結野本人だった。 「ちょ、ちょっと由美……いったいなにを……」 「嵐子は桜守高校を辞めて、二学期からわたしが通う女子校に転校します」  結野はぽかんとした顔で間宮さんを見ながら、 「ゆ、由美……いったいなにを言ってるの? わたしが由美の学校に転校するなんて、そんな話は聞いてないし、わたしは……」 「嵐子」  間宮さんは鋭い視線で結野を見つめる。 「これは、あなたのためを思ってのことなのよ」 「……本気なの?」  結野の表情が強ばる。 「由美は……本気でそんなことを言ってるの?」 「ええ。わたしは、この話を嵐子にするために、桜守町に来たんだから」 「そ、そんな……そんなこと勝手に言われても……」 「わたしが通う女子校は全寮制。山の奥のほうを拓《ひら》いて作った学校で、俗世とは隔絶された環境よ。女子校なんだから寮には女性しかいないし、教師にしたってほとんど女性だわ。山の中とはいっても設備は近代的だし、生活に不自由することはまったくない。そこに通えば、男性との接触は最低限に抑えられる。もう嵐子は怖い思いしなくてもすむのよ?」 「でも……」 「共学の学校にいたら、男性恐怖症のあなたはいつも苦しむことになってしまうわ。だから嵐子、わたしの通う学校に来て。わたしは……あなたが心配なの」 「由美……」 「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ!」  慌てて声を上げたのは、石動先輩だった。 「さっきからなに勝手なこと言ってんのよっ! 嵐子を女子校に転校させる? ふざけんじゃないわよ! そんなことあたしがゆるさないわ!」  先輩は間宮さんを睨みつける。が、間宮さんはその視線を静かに受けとめ、 「あなたにゆるしてもらう必要はないわ」 「な……」 「嵐子はこう言ってたよね。わたしは男性恐怖症を治すために第二ボランティア部というところに入って毎日がんばってるって。部員のみんなはいい人ばかりだし、わたしの恐怖症を治すために協力してくれてるって」 「そうよ! あたしたちは嵐子の男性恐怖症を治すために——」 「でも」  間宮さんは先輩をまっすぐ見つめながら、 「嵐子が男性恐怖症を治したいと第二ボランティア部にお願いしてからもう三ヶ月以上経つはずだけど……嵐子の男性恐怖症はよくなってるの?」 「え? そ、それは……」  先輩が露骨にたじろぐ。 「嵐子の男性恐怖症は、以前に比べてちょっとでもよくなってるの?」 「…………」  間宮さんは小さくため息をつき、 「わたしはこう思っていたのよ。嵐子の男性恐怖症が、第二ボランティア部のみんなのおかげで改善に向かっているのなら、転校の話はせずにおとなしく帰ろうって。でも、昨日の砂戸くんとのデート、そして今日の夏祭りでの嵐子の様子を見て確信したわ。……嵐子の男性恐怖症はまったく治っていない。あなたたちじゃ嵐子の恐怖症を治すことはできない」 「そんなこと……」 「ダメなのよ、あなたたちじゃ……あなたたちじゃ嵐子を守れない。だから、わたしが嵐子を守る。わたしが——」 「う、うるせぇ——っ!」  先輩は大声で怒鳴った。なんか逆ギレ気味の叫びだった。 「勝手に確信してんじゃないわよっ! 嵐子の男性恐怖症はあたしたちが——神様のあたしが治してみせるっ! 絶対に! 嵐子だってそれを望んでるはずだわ! ね、嵐子、そうでしょ?」  と、先輩は少しだけ不安そうな顔をしながら結野のほうを見る。  結野はちらりと間宮さんの様子をうかがってから——そのあと一瞬だけ俺に視線を向けてから——ひかえめにうなずいて見せ、 「う、うん。由美の気持ちはすごくうれしいけど、やっぱりわたしは……」 「嵐子」  間宮さんは結野の両肩に手を置き、 「お願いよ、嵐子。わたしの女子校に来て」 「ゆ、由美……」 「わたしたち、子供の頃からいつもいっしょだったじゃない。嵐子のことを一番よく知ってるのはわたし。嵐子のことを一番想っているのもわたし。わたしは……嵐子がつらい思いをするのは嫌なの。わたしの知らないところで嵐子が泣いてるのは嫌なの。だから……」  間宮さんは結野の肩に置いた両手にぐっと力を込める。 「だから、転校して」 「ゆ……」 「お願い。一生のお願い」 「あ、あ……」 「嵐子、こう言うのよ——わたしは転校します」 「わ、わた……」  あ、あれ? どうしたのだろうか、なんだか結野の様子がおかしい。瞳がとろんと力を失っていて、両膝が小刻みに震えていて……  そのとき俺は気づいた。結野の肩に置かれている間宮さんの両手が、わきわきと微かに動いていることに。ま、まさか…… 「さあ言うのよ嵐子。転校しますって」 「て、てんこう——」 「こらああああああああああああああああ————っっ!」  叫びながら間宮さんに向かってドロップキックを放ったのは、石動先輩だった。  間宮さんは結野から離れる。結野はぽけーっとした表情のまま地面に膝を落とした。着地した先輩は眉を逆立てながら、 「あ、あんたっ! いま嵐子に変なマッサージしてたでしょう!?」 「ちっ」  間宮さんが小さく舌打ちする。どうやら間宮さんはマッサージで結野の理性をなくし、自分の申し出に無条件でうなずかそうとしていたらしい。……間宮さんって、けっこう卑法な人だな。 「なんてことしやがんのよっ! この魔女が!」 「ふんっ。嵐子があなたたちに気を遣って本音を言えないようだったから、わたしがちょっと手助けをしてあげようと思っただけよ」 「アホか! やっぱりあんたなんかに嵐子は任せられないわ! 絶対に転校なんてさせないから!」  先輩と間宮さんは激しく睨み合う。おお、怖い……  間宮さんは両腕を組み、冷たい目で先輩を見つめながら、 「ふうん。じゃあ、あなたなら嵐子の男性恐怖症を治せるって言うのね?」 「当然よっ!」 「だったら勝負しましょうよ」 「しょ、勝負……?」 「ええ」  間宮さんはうなずき、 「期限は……そうね、ではわたしが家に帰る日の前日までの、五日間」  と、言った。 「明日から五日間のうちに、あなたたちが嵐子の男性恐怖症を治すことができたなら……わたしの負けということで嵐子を転校させるのは諦めるわ」 「そ、そんな……たった五日間なんて無理よ!」 「なるほど」  問宮さんは静かにうなずき、 「五日間じゃ無理。じゃあ何日あれば大丈夫なのかしら? 一ヶ月? 一年? 十年? どれくらいあれば、嵐子の男性恐怖症を治すことができるの?」 「ど、どれくらいって……」 「時間なんか関係ないわ。無理なのよ。百年かかってもあなたたちには無理なの」 「な、なんだと……」  石動先輩のこめかみが怒りに脈打つ。そんな先輩を間宮さんは鼻で笑い、 「どんなに時間があったとしても、あなたたちには嵐子の男性恐怖症を治すことはできない。これまでのようにだらだらと無駄な時間を過ごし、そのあいだに嵐子は何度も何度も傷ついて……そんなことにすら気づかないあなたの愚鈍さは、もはや罪だわ」 「……てめえ」  先輩の怒りゲージがマックス状態に。こ、これはやばい。  結野はぽけーっとしたままだし、みちる先生は様子見を決め込んでいる。冷静さをなくした先輩が間宮さんの挑発に乗る前に、俺がなんとかしないと…… 「せ、先輩っ! 落ち着いてくださいっ! これは間宮さんの挑発——」 「うるせえ変態は黙ってろっ!」 「がべはあっっ!」  慌てて近づいた俺に先輩の強烈な裏拳が炸裂する。もんどり打って倒れる俺! 弾ける決感にマイッチング! イエス! 「あひぃやあ……き、きんもちいいでぷ……」 「上等……上等じゃない」  石動先輩はぎりぎりと拳を握りしめ、間宮さんを睨みつける。 「五日間あれば充分だわっ! その勝負、受けてやろうじゃないのっ!」 「あら、そう」  先輩、気づいてください……間宮さんが『狙い通り』って笑みを浮かべてます…… 「このくされ魔女がっ! 五日後を楽しみにしてなさいよっ!」 「ええ、楽しみにしてるわ」  二人はお互い不敵なオーラを身にまといながら、激しく睨み合っていた。  そして——  当事者である結野の気持ちを完全に置き去りにしたまま、間宮さんと第二ボランティア部の勝負は成立してしまったのである。  翌日。  俺は部室にいた。 「……では、はじめるわよっ!」  ホワイトボードのそばに立つ石動先輩が、叫ぶように言う。  そのホワイトボードには、こう書かれていた。 『第一回 結野嵐子の男性恐怖症を治すにはどうすればいいのか会議』  部室の前方に置かれたホワイトボード、中央に鎮座する大きなテーブル。これは第二ボランティア部における会議用レイアウトだった。  先輩は、テーブルにつく俺たちを見つめながら、 「事情はみんな知っての通り! このままでは嵐子はあの魔女の通う女子校に連れ去られてしまうわっ! それを防ぐために、あと五日以内に嵐子の男性恐怖症を治す方法を見つけなければならないのよ!」  ばんっ、と手のひらを机の上に叩きつける石動先輩。その額には『崖っぷち』と書かれたハチマキを巻いていた。 「絶対に負けられない戦いが、ココにはあるの!」 「あの……」  おずおずと手を挙げたのは————俺の隣に座る金髪の男子。辰吉だった。 「なんで俺まで参加させられてるんすか? 俺、第二ボランティア部じゃないのに……」 「うっさいっ!」 「げぶっ!」  先輩の投げた水性ペンが、辰吉の額にクリーンヒットした。 「いまは緊急事態! 一人でも多くの人間の知恵が必要なのよ! だから、つべこべ言わずに会議に参加しなさい! 文句ばっかり言ってるとドライヤーで口の中をカラカラに乾燥させるわよっ!」 「ううう……り、理不尽だ……」  と、辰吉は呻いていた。  俺はぼんやりと昨日のことを思い出す。  結野を女子校に転校させる——そう間宮さんは言った。  だが昨日の様子を見る限り、当事者の結野には転校する気はないように見える。でも、間宮さんと石動先輩のいがみ合いから事態はなぜか勝負事に発展し、俺たち第二ボランティア部が負けると結野は転校してしまうみたいな展開になった。当事者の気持ちを完全に置き去りにして……まったく、先輩があんな挑発に乗るから…… 「オラそこの変態っ! ぼけっとしてるんじゃないわよっ!」 「ほなぶっ!」  飛んできた黒板消しの角が眼球にヒットし、俺はのけ反った。 「ういいいぃ……い、いたいよぉ……」 「ブタ変態が……こんなときぐらい、役に立ちなさいよ」  いつの間にか目の前に石動先輩が立っている。ううう、びっくりするほどの威圧感です。  先輩は半眼で俺を見下ろしながら、 「つーかねえ……嵐子の男性恐怖症が治ってないのは、ほとんどあんたのせいなのよ」 「ええっ? そ、そんな言いがかりを……」 「口答えするんじゃないわよっ! このブタ餅がっ!」 「ブ、ブタ餅……」 「あたしたちはこれまで、嵐子の男性恐怖症よりもあんたのドMを治すほうを優先して活動してきたわ。それは、あんたのドMのほうが重症で変態で変態で変態で気持ち悪かったからなのよっ! だから、まずはあんたのほうから攻略していこうと思ってたの! だけど、あんたのドMは一向に治る気配を見せず……だから嵐子の治療は後回しに……」 「そ、それは俺のせいなんですか……?」  というか、問題はこれまでの治療法にあったような…… 「百二十パーセント貴様のせいだろうがああああ——っっ!」 「ぐ、ぐわあああっ! せ、せせ、先輩、喉仏をぎゅっとするのはやめて……はあ、はあ、はあ、はあ……」 「ほんっと、あんたって生ゴミよりも役立たずね」 「ひ、ひどいですぅ……」  先輩は不機嫌な顔でホワイトボードのほうに戻っていく。  俺は部室を見回してから、 「そ、そういえば結野がまだ来てないみたいですけど……」 「そうね。なにしてるのかしら」  先輩が言ったとほぼ同時——部室の扉が開いた。  扉を開けたのは結野だった。 「お、遅れてごめんなさい」  言いながら、部室に足を踏み入れる結野。その背後には——間宮さんの姿があった。  間宮さんはにっこり余裕の笑みを浮かべ、 「こんにちは、みなさん」  先輩の顔が露骨に歪む。間宮さんを睨みつけながら、 「……なんであんたまで部室に来てんのよ。お呼びじゃないんだけど」 「あら? 嵐子の男性恐怖症が治ったか判断するために、わたしが同席するのは当然のことでしょう? それに、切羽詰まったあなたたちが嵐子に無茶なことをしないか見張らないといけないし。たとえば洗脳とか」 「洗脳なんかするかっ!」 「じゃあ、わたしがいてもいいでしょ? それに、あなたたちがどんなふうに嵐子の男性恐怖症を治そうとするのか興味もあるし」 「……ふん。まあいいわ。あたしたちの仕事っぷり、その腐った瞳に焼き付けなさい。ただし、あたしたちのやることに口出しするのはナシよ!」 「善処するわ」  と、落ち着いた声音で言う間宮さん。 「間宮由美」  みちる先生が椅子から立ち上がり、間宮さんに声をかける。 「それは、君が通っている女子校の制服か?」  そう——いま間宮さんは、深緑色を基調とした見慣れない制服を着ていた。 「え? はい、そうですけど……学校に私服で来るのは気が引けたから、制服を着ることにしたんです。もともと昨日もこの制服で来るつもりだったんですけど……」 「私が嵐子に無理を言って二人とも浴衣で来るようお願いしたのだったな。昨日はどうもありがとう。いい目の保養になったよ」 「いえ……」  さすがの間宮さんもみちる先生には敬語だった。年上であるはずの石動先輩にはタメ口なのだが。 「そうか……うむ、じつにかわいらしい制服だ。ちょっと写真を撮らせてもらっていいか?」 「へ? 写真?」  間宮さんの返事も聞かないうちに、みちる先生は白衣のポケットから取り出したデジタルカメラで制服姿の間宮さんを激写していた。……この人はどうしようもない大人だ。  困惑した様子の間宮さんは、少し照れた顔をしてレンズから目を逸らした——瞬間、その切れ長の瞳が大きく見開かれる。 「あ……」  思わず漏れる声。その視線の先には、彼女と同じような表情をしている辰吉がいた。 「…………」 「…………」  交差する二人の視線。部室は少し気まずい感じの静寂に包まれる。にもかかわらず、みちる先生は間宮さんへの写真撮影をやめなかった。……こ、この人はどこまで空気が読めないんだ……いや、違うな。きっとこの人は空気を読んだうえであえて写真撮影を続行しているのだ。その図太い神経はもはや賞賛に値します。  やがて、 「よ、よお」  辰吉がぎこちない笑みを浮かべながら言う。 「ひ、久しぶりだな、由美」 「……うん」  と、間宮さんは囁くような声でうなずく。  二人の会話はそれっきりだった。結野と間宮さんはテーブルの後ろのほうに着く。写真撮影を終えたみちる先生も席に着く。 「じゃあ、会議をはじめるわよっ!」  変になっちゃった空気を振り払うかのように、先輩が大声で叫んだ。隣にいる辰吉はなんか落ち込んだような顔をしている。 「嵐子の男性恐怖症を治す方法を、あたしは徹夜で考えたわっ! それはこんな感じ!」  先輩は自分の考えた方法をホワイトボードに書き出し、口頭で説明する。  その方法とは—— 『男性がひ弱で矮小な存在であるということをわからせるために嵐子の目の前でブタロウを半殺しにする』『男という文字を書いたトマトをみんなで嵐子に投げつける』『精神修行によって恐怖症を克服するため、三日三晩飲まず食わずでお経を唱える』『男なんて怖くない男なんてみんなブタだ、と書かれた長いふんどしを地面につけないように町内を全速力で走り続ける』『ブタロウを生《い》け贄《にえ》にして黒魔術』『バンジージャンプ』『園児服喫茶』 「…………」  俺の目が自然とやぶ睨みのような感じになっていく。きっとほかのみんなもそうだろう。先輩の考えた方法は……あまりにもひどかった。というか、最後のほうはもう意味がわかりません。いや、よく見ると冒頭から意味不明でした。 「どう!? いい方法ばっかりでしょ!?」  と、先輩は瞳をキラキラさせながら自信満々で言い放つ。  皆、正直な感想を言えずに黙り込んでいた。 「ねえ嵐子、どう思う? どの方法だったら男性恐怖症が治りそう?」 「え、えっと……」  結野はとても困った顔をしていた。そして隣では間宮さんが眉を逆立てながらぎりぎり奥歯を噛みしめていた。一応口出しはしないという約束をした手前、ここはなにも言わず我慢しているのだろう。が、その表情を見る限り彼女の我慢もそう長くは続きそうになかった。 「せ、先輩!」  見かねて声を上げる。 「あの……その方法はあんまり効果的じゃないような気が……」 「効果的じゃない? どれのこと?」 「どれというか……ぜ、ぜんぶ」 「ああ?」  先輩の瞳がぎらりと怖い光を放つ。 「変態のくせに、この美緒様が考えた方法にケチをつけるってーの?」 「い、いや、その……」 「確かに砂戸太郎の言うとおりだ」  と助け船を出してくれたのは、意外にもみちる先生だった。 「美緒が考えた方法はどれも乱暴であまり効果があるとは思えない。相手が砂戸太郎だったならおもしろそうなので傍観していただろうが、か弱い乙女である嵐子が相手だと思うと……やはり、認めるわけにはいかないな」  俺だったらよかったんですか…… 「まあ、砂戸太郎を半殺しにする案と黒魔術の生け賛にする案はやってもいいと思うが」  お願いだからやらないでください。 「お、俺もあんまりいい方法とは思わねえ」  そう言ったのは辰吉。 「ふざけてるのかと思ったけど……それ、本気で言ってたのね。呆れたわ」  先輩を睨みながら間宮さん。  否定の集中砲火を受け、石動先輩は「う……」とたじろぐ。そして、 「な、なによ……せっかく徹夜で考えたのに……」  涙目になりながら、つぶやくように言う。 「そんなに言うなら、あんたたちもちゃんと考えなさいよっ! あたしが知恵を振り絞って考えたアイデアがぜんぶダメって言うんなら、もうあんたたちが考えるしかないんだしねっ! なによなによ、みんなして……くすん……」  あ、ちょっといじけた。  そして。  話し合い——というかいじけた先輩の横暴で、こんなことに—— 「じゃあ、こうしましょう! あたし以外の四人、ブタロウ、みちる姉、葉山、嵐子の四人がそれぞれこれだと思う治療方法を考えて、明日から一人ずつ実践していくのっ!」 「ひ、一人ずつ……?」 「そうよっ! 一人ずつ考えた方法をみんなでサポートしながら実践するの! じゃあ治療方法を考える順番を決めるくじ引きをするわよっ!」  先輩は勝手に話を進行させ、割り箸で作ったくじをみんなに引かせる。  一人一個って……マジかよ……  反論は許されない雰囲気だった。俺はしょうがなくくじを引いた。  俺が引いた割り箸の先には『三』という数字が書かれていた。 「私が一番だな」  と、みちる先生。 「俺は……二番か……」  と、辰吉。 「わたしは……四番です」  と、結野。  ということは、みちる先生、辰吉、俺、結野の順番ってことか。なんと当事者の結野が大トリになってしまった。 「じゃあ、明日はみちる姉ねっ!」 「了解した」  みちる先生はいつもの無表情でうなずく。その表情からは、自信があるのかないのか判断することはできなかった。 「この人たち……大丈夫なのかしら。いろんな意味で」  間宮さんは両腕を組みながら微妙な表情を浮かべていた。  そして翌日。  実行するのは、みちる先生が考え出した治療方法。  その方法とは—— 「…………」  部室にいる俺は、唖然とした顔を奥の部屋のほうに向けている。隣にいる辰吉と結野、少し離れた場所にいる間宮さんも俺と同じような表情を浮かべていた。  奥の部屋には——無数のマネキンが立っていた。  まるで満員電車の中のよう、数え切れないほどのマネキンが立っているというか詰まっているという感じ。  い、いったいこれは……  俺たちは困惑した顔で、そばに立つみちる先生に説明を求める。 「嵐子が男性恐怖症を治すには、やはり男性に慣れるのが一番だと思ってな」  みちる先生はいつもの抑揚のない表情と声で、 「だから、奥の部屋にみっちりと男性を詰め込んで、その中に嵐子を放り込む……という方法を考えたのだが、それはあまりにも酷というか荒療治すぎるだろうと思って、男性の代わりに男性の骨格をしたマネキンを用意してみた」 「…………」  みちる先生は冗談を言っているふうには見えなかった。 「この空間に嵐子を閉じこめる。男性恐怖症の嵐子にとって、それはとてもつらい治療だろう。だが、嵐子が奥の部屋を出てきたとき、彼女の恐怖症は完全に治っているはずだ」  つらい治療って……ただのマネキンですよ? 「というか、これだけの数のマネキンをどこから……」  辰吉がつぶやくように言う。 「ああ、それは友人のツテを頼って用意してもらったのだ」  友人のツテ……いったいどんなツテなのだろう……  いや、そんなことよりも 「あの、みちる先生……」 「どうした、砂戸太郎?」 「一つだけ、どうしても腑に落ちない点があるんですが……」  俺はジト目でみちる先生を一瞥してから、奥にいるマネキンのほうに顔を向け、 「どうして……マネキンに俺の写真が貼ってあるんですか……?」  奥の部屋を占拠する無数のマネキンたち。  そのすべての顔面に——俺の顔写真が貼ってあった。  実際の寸法ぐらいまで引き延ばした俺の顔写真。すべて同じ表情のそれが、テープかなにかでマネキンの顔面に貼り付けられているのだ。  ……正直、かなり気味が悪かった。 「マネキンの顔はのっぺらぼうだからな」  みちる先生は言う。 「そのままだと男性か女性か判断できないだろう? だから君の顔写真を貼って、このマネキンは男性なのだということを嵐子に思いこませるためにやったんだ」 「……俺の写真を使う必要はないですよね?」 「知らない男性の写真だと、嵐子は怯えすぎてしまうのではないかと思ったんだよ。だから、慣れ親しんだ君の顔写真を使ったんだ。嵐子が安心するように」 「…………」  同じ顔写真を貼り付けられた無数のマネキンたち。あの光景を見て安心できるような人間なら、どんな恐怖症もすぐ克服できると思います。 「え……なにそれ……」  愕然とした様子でつぶやいたのは、間宮さんだった。なんだか頭痛に耐えるように片手で頭を押さえながら、 「マネキンの中に放り込む? それってなにかの冗談? そ、そんなアホみたいな方法で嵐子の男性恐怖症が治るって本気で思ってるの? え、マジで?」  と、すごく深刻そうな表情でぶつぶつ言っている。……とりあえず、間宮さんの心証は最悪のようだ。 「ねえ、みちる姉……」  どこか釈然としない顔で言ったのは、石動先輩だった。 「美緒。どうした?」 「その方法自体は悪くないと思うんだけどね……」 「なにか問題でも?」 「ええーっと……」  先輩は自分の姿を見下ろしてから、 「なんで……あたしがチアリーダーの格好をしないといけないの?」  いまの石動先輩は——白を基調としたチアリーディングのユニフォームを着ていた。  両手には黄色いぽんぽん。ユニフォームのスカートはかなり短くて、すべすべしてそうな白い太ももが窓から漏れる日差しを反射している。 「そ、それに、このスカートちょっと短すぎ……」 「美緒」  みちる先生は石動先輩の両肩に手を置き、 「嵐子は、これからつらい治療に向かう」 「そ、そうね。ブタロウの顔写真が貼られたマネキンの群れの中に行くなんて、すんごくキモくて大変よね。で、でも、それとこの格好になんの因果関係が……」 「いまから嵐子が行う治療は一人っきりの孤独な戦い……だが、それを外で応援してくれる人がいるなら、どうだ?」 「え?」 「部屋の外から自分のことを必死に応援してくれる人がいる。そう思うことができたなら、嵐子はどれだけ勇気づけられるだろうか」 「…………」  先輩はとても真剣な表情で、みちる先生の言葉に聞き入っていた。 「君の応援で嵐子を支えてやってくれ。これは、君にしかできない仕事だ」 「う、うんっ! わかったわっ!」  先輩は両目をキラキラさせ、 「あたし、がんばって嵐子を応援するっ!」 「そうか。さすがは美緒だ。それにしても……チアリーダー姿の美緒はかわいいな……」  みちる先生は満足そうにうなずく。 「…………」  俺たちは、無言でそのやりとりを見守っていた、  みちる先生……あんたはただ、石動先輩のチアリーダー姿が見たかっただけでしょう。絶対に。  先輩も先輩だ……あんな簡単に騙されちゃって。ちょっと不憫になってくる。  だが、ここで先輩に真実を伝えるとあとでみちる先生から報復を受けそうなので、俺たちはなにも言わなかった。言えなかった。先輩、ごめんなさい……あと、そのチアリーダー姿はマジでかわいいです…… 「では、治療をはじめよう。嵐子、準備はいいか?」 「え? あ、はい……」  結野はこくりとうなずく。 「では、この部屋の中に入ってくれ。部屋の中心に座布団があるから、そこに座るんだ。あとは精神集中してひたすら耐える」 「えっと……座るだけでいいんですか?」 「そうだ」 「ど、どれくらい……」 「まあ、最低一時間くらいは」 「けっこう長いですね……」 「ああ。つらいだろうが、がんばってくれ」 「はあ……」 「嵐子がんばってっ! あたしはここで応援してるからね! 嵐子は一人じゃない……一人じゃないからっ!」  石動先輩が妙に熱っぽく言って「フレー! フレー!」とぽんぽんを上下させる。結野は困ったような表情でそれを見つめていた。  結野は俺の写真が貼られたマネキンの群れをしばらく気味悪そうに眺めたあと——「うわぁ……」とかつぶやいてた——体を縦にしてマネキンを倒さないように注意しながら、わりとあっさり部屋の中に入っていった。  さすがにただのマネキンを怖がりはしないようだ……違う意味で怖がってはいたようだけど…… 「フレー! フレー! あらしこっ! フレーフレーあらしこっ! がんばれがんばれあらしこっ!」  騙されてると気づいていない石動先輩は必死に結野を応援している。先輩……ちょっと健気すぎます…… 「うむ。いいぞ美緒。じつにいい」  みちる先生は言いながら、応援する先輩をデジタルカメラで激写していた。この人は本当にひどい人だな……つーか先輩、そんな足を振り上げたらパンツが見えそうに……というかもう見えちゃって……  俺の隣にいる辰吉は、先輩から目を逸らしながら、 「め、目のやり場に困るよな……」 「あ、ああ……」  俺も同意してうなずく。二人ともちょっと顔が赤くなっていた。 「アホだ……この人たちは間違いなくアホだわ……」  間宮さんはまだぶつぶつ言っていた。ううむ、俺たちはこういうヘンテコな状況に慣れているからあんまり違和感は感じないのだが、はじめての間宮さんはかなりのカルチャーショックを受けているようだった。  そして一時間が経過し—— 「嵐子。もう一時間経ったから、出てきてかまわないぞ」  みちる先生が部屋の外から声をかける。 「え……? あ、はあい」  と、マネキンの向こうから結野の返事が聞こえる。石動先輩は応援疲れでへとへとになっていた。  みちる先生は結野に、 「大丈夫か? 気分は悪くないか?」 「はい、大丈夫です。でも、正座してたからちょっと足が痺れちゃって……きゃっ!」  結野の短い悲鳴が聞こえたあと——ガラガラガラガラガラッ! という大音量。  部屋に立っていたマネキンが、怒濤の勢いで崩れはじめた。 「えっ!? ゆ、結野っ!?」  思わず声を張り上げ、部屋の入り口から中を見る。 「あ、嵐子っ!」  間宮さんの顔が青ざめる。部屋に立っていた無数のマネキンたちのほとんどが重なるようにして倒れ、不気味な山を作っていた。こ、これは大変だ。 「結野っ!」 「嵐子っ!」  俺と石動先輩、間宮さんと辰吉とみちる先生が、慌ててマネキンを部屋の外に放り投げる。  結野は——  マネキンの山の下敷きになっていた。 「結野! だ、大丈夫か!?」 「うん……だいじょうぶ……ちょっと痛かったけど……」  結野は言ったあと、苦笑いを浮かべた。 「ずっと正座してたから、足が痺れちゃってて……立ち上がったときにフラついちゃったの。それで、近くのマネキンを倒しちゃったら……」  マネキンが将棋倒しになり、結野はそれに埋もれてしまったというわけか。 「ほ、本当に大丈夫なのか?」 「うん。すんごいびっくりしたけど、このマネキンってけっこう軽かったし」  結野の様子を見て、俺たちはホッと安堵の息をつく。どうやら怪我とかはしていないようだった。  とりあえず結野をマネキンの山から引っ張り出そう。そう思って、俺は結野の右腕をむんずと掴み——そこで自分の過ちに気がついた。 「あ……」  俺を見上げる結野の顔から色が消える。  全身が小刻みに震えだし、頭がカクカク左右にブレる。両目が見事なほど泳ぐ。  し——しまったぁ! ついうっかり…… 「い——————」  目の前にあったマネキンの山が。  爆発した。 「いやああああああああああああああああああああああああああっっっ!」  俺の顔写真が貼り付けられたマネキンたちを派手に弾き飛ばしながら、結野は立ち上がる。涙目で拳を振り上げ、そして、 「こわいこわいこわいこわいこわいいいいいいいいいいいい————っっっ!」 「ひいいいいいいいい——っ!」  腰の入った強烈なパンチが、青くなった俺の顔面——の隣を通過した。 「え……?」  な、殴られなかった!?  もしかして、みちる先生の治療法が効果を上げた……というわけではなかった。  すぐ隣からバゴオオオオンッという破壊音。慌ててそちらに顔を向ける。  マネキンの頭部が、粉砕していた。  結野の拳は俺ではなく、まだ立ったままでいたマネキンの顔面を打ち抜いたのだ。恐怖で錯乱状態になっている結野はどうやら俺とマネキンを間違えてしまったらしい。というか、マネキンの頭部を粉々にするなんて……どんな威力のパンチなのですか…… 「こわい、こわい、こわいこわいこわいよおおおおお——っっ!」  結野は叫びながら、崩れずに立っていたマネキンの頭部を問答無用の鉄拳で破砕していく。俺の顔写真が貼られたマネキンの顔面が結野の拳によって陥没し、ぐしゃぐしゃになる。俺が次々と撲殺されていく。  その殺害現場を見つめる俺は 「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」  と、息を荒げていた。  俺の顔写真が貼られたマネキンが、美少女に殴られて粉々になっていく。そんな光景を目の前で見せつけられる。それはなんというか、斬新で加虐的な変態プレイのようであり、その光景を見つめる俺はもう、おお、おおお、俺はもう、はあはあはあはあはあ……  俺は変態的な恍惚に全身を包まれながら、ふるふる気持ち悪い感じで震えていた。  結野は泣きながら、近くに倒れていたマネキンの両足を抱えるようにして持ち上げ、 「うえええええええええええええんっ! 男の子こわいったらこわいんだもんっ!」  そう叫びながら、マネキンを俺に向けて思いっきり振り下ろした。 「お、おぐわああああああああああああああああああああ————っっっ!?」  マネキンの頭部が——俺の頭部に激突した。  どうしようもないほどの衝撃と激痛が顔面に炸裂し、変態不審物であるボクちゃんの精神構造体をお下劣な変態色に染めていく。 「ハイキタアアアアアアアアアッッ! ハイハイキタアアアアアアアアアアッッッ!」  あまりの悦楽ボンバーに自分を見失った変態マゾヒストである俺は、猥褻物《わいせつぶつ》陳列罪みたいな笑みを浮かべながら無意味な側転を連続で繰り出す。 「じ、じじじ、自分の写真が貼られたマネキンを武器にして殴られるなんて、そんなの絶対にあり得ないよおおおおっ! あり得ないほど気持ちよかったよおおおおっ! さ、さあ結野さん、もっともっともっと、その哲学的な攻撃を吾輩のきったねえ体にぶち込んで撲殺しちゃってくださいよおおおおおおお————っっ!」 「ヒイイイイイイイ——っっ! な、なんで笑いながら側転してるのぉ!? こ、こここ、こわすぎるよおおおおぉ!」 「げるべばっはぶええええええええええええええええ——っっ!」  結野のぶん投げたマネキンが、側転していた俺の腹部にめり込んだ。俺は口からなにかを吐き出しながらその場に倒れ込んだ。 「オ、オウ……ナイスヒット……」  いつの間にか部屋の外に避難していた石動先輩、みちる先生、辰吉は、 「みちる姉……嵐子の男性恐怖症、まったく治ってないみたいよ……」 「そうだな。残念ながら、この方法は失敗だったらしい」 「というか、大惨事になってるような……」  間宮さんは呆然として、 「…………」  なんというか、あまりのアホらしさに声も出ないという感じだった。  五日間勝負の三日目。  今日は辰吉の考えた案を実行する日だった。 「ねえ……なんなのよ、これは……」 「…………」  石動先輩とみちる先生は、困惑した気配を漂わせながら自分の服装を見下ろす。  二人はスーツ姿だった。それも、男性用のスーツを着ている。 「あんたが指示するから着たんだけど……これがなんで嵐子の男性恐怖症の治療になるのか、ちゃんと説明しなさいよね」  と、先輩は辰吉を睨むように見る。先輩は長い髪をみちる先生みたいに首の後ろでくくっていた。 「俺の考えた作戦はこんな感じです」  辰吉は、ごほんっと咳払いをし、 「結野が男性恐怖症を治すにはまず男性に慣れなければならない。でも、いきなり男性を近づけても怖がって殴ってそれで終わり——ということは経験的にわかってるから、いくつかの段階を経て男性に慣れてもらおうかと」 「いくつかの段階?」  と、俺が尋ねる。 「ああ。まずは男装した女性を。それに慣れたら今度は女装した男性。それにも慣れたら、最後は普通の男性を接触させる。徐々に男性に慣れさせて、最終的には男性が怖くなくなるってわけだ」  辰吉はそう言うと、部室の壁に背中をあずけて立っている間宮さんのほうをちらっと盗み見た。ちょっとおどおどしたような顔で。やはり辰吉は間宮さんの様子が気になるようだった。  その間宮さんは、辰吉の視線を感じると無表情で顔を背けた。 「——では、これは男装というわけか」  と、みちる先生が自分の格好を見下ろしながら言う。 「あ、はい、そうです。まずは男装した石動先輩とみちる先生で慣れてもらおうと」 「ふむ……自分でコスプレをするのははじめてだな」 「で、男装したのはいいけど、次はどうするのよ?」 「そうですね……スーツ姿の二人はなんかホストっぽく見えますから、結野がホストクラブに来たっていう設定でやってみましょうか。先輩とみちる先生にホスト役をやってもらって」 「ホ、ホスト?」 「はい」 「そんな……急に言われても、ホストってどんなふうにすればいいのかわかんないわよ」  石動先輩が唇を尖らせる。 「まあ、そこらへんはイメージで適当に」 「適当にって……」 「美緒、とりあえずやってみようじゃないか」 「う、うん……」  ——椅子が三つ用意され、その前に小さなテーブルが置かれる。 「え、えっと……わたしはどうすればいいの?」  結野が困惑した様子で言う。  そんな結野に、スーツ姿のみちる先生が近づき、 「いらっしゃい、マドモアゼル」  なんだか慣れた様子で結野の肩に手を置くと、彼女を真ん中の椅子に座らせる。自分もその隣に腰を下ろした。 「こういう店ははじめて?」 「へ? え、ええ、まあ……」 「そうか。今日はゆっくり楽しんでいってくれ」  言って、みちる先生は結野の髪を優しく撫でる。結野の体がぴくりと震えた。 「綺麗な髪をしているね……それに、とってもいい匂いがする」 「そ、そんなこと……」 「手もすべすべだな。うん、気持ちいい」 「あ、あの……」  すりすりと結野の手の甲を撫でるみちる先生。顔を赤くしている結野。いつもの抑揚のない表情をしているが、そこはかとなく楽しそうなみちる先生だった。というか、はじめて来店した客にいきなりボディタッチしまくるホストなんかいないだろう。たぶん。  みちる先生が喋ってるあいだに空いてる椅子に座った石動先輩はというと、 「ええっと、ホストか……ホスト……ううん……」  両手の人差し指でこめかみ辺りをくりくりしながら、難しい顔で唸《うな》っていた。どういうふうにホスト役を演じればいいのか悩んでいるらしい。 「ホストといえば……ドンペリ入りまーす……誕生日には客から札束のネックレス……みんな同じ髪型……女に貢がせるだけ貢がせて金がなくなったらポイ……ホストコンピュータ……ワールドカップのホスト国……郵便物を投函する箱……」  ……なんだか先輩はホストにすごい偏見と間違った認識を抱いているようだった。全国の一生懸命働いてるホストさんにあやまりなさい。あと、ホストコンピュータとワールドカップのホスト国っていうのはまったく関係ないし、最後のはホストじゃなくてポストです。 「うーん……ううーん……」  悩みすぎた先輩の頭からプスプスと煙が立ちのぼり、両目がうずまきみたいにグルグルになる。だ、大丈夫ですか?  そして。  苦悩が限界に達した先輩は、がばっと結野に抱きつき—— 「ぬ、ぬおおおおおおおおおおおおおおお————っっ!」 「へ? んきゃああああああああああああ————っっ!?」  なぜか、両手で結野の胸を鷲掴みにした。え……? 「ちょ……み、みみみ、みおさ……やめ……」 「イヤやイヤや言うても体は正直じゃけんのおおおっ! おらおら、おとなしゅうせんかいっ! わしがすぐピンク色の天国に——」 「な——なにしてんのよあなたはっ!?」  慌てて駆け寄った間宮さんが石動先輩を突き飛ばす。  間宮さんは頭から角を生やすような勢いで先輩を睨みつけ、 「い、いまのどこがホストなのよっ!? ふざけるのもいい加減にしなさいっ!」 「あ……え、ええっと……」  正気に戻った様子の先輩は申し訳なさそうにしながら、 「ご、ごめん嵐子……あたし、なんか混乱しちゃって……ホストだからとりあえず女の子に酷いことしとけって感じで……」 「先輩……いきなり客の胸を揉んだりするホストなんか絶対いませんから」  ほんと、ホストのみなさんすみません。 「やれやれ……石動先輩、なにをやってるんすか」  と、辰吉がため息をつく。それから結野に向けて、 「結野。大丈夫か?」 「え? うん、わたしはべつに……」 「そっか。じゃあ、男装した女性は大丈夫っぽいな。よし、時間もないことだし、さっさと次の段階に進むか」 「次って……女装した男性か?」 「ああ」  俺の質問に辰吉はうなずく。  女装といえば辰吉である。では、いまから辰吉が女装をして——  あ、でも……俺はちらりと間宮さんのほうに目を向けた。  ここには間宮さんがいる。辰吉は間宮さんに女装のことを知られたくない。なので辰吉はここでは女装できない。じゃあ……どうするんだ? 「え……?」  辰吉は、なぜか俺のほうをじっと見つめていた。その目はなんですか? 「女装は、できるだけ結野と親しい男性がやったほうがいいと思うんだ。そのほうが結野だって安心するだろうし」  辰吉は言う。 「なるほど……それは一理あるわね」 「ああ、正論だな」  いつの間にか石動先輩とみちる先生が目の前にいた。 「え? ええ? えええ?」  じりじりと近づいてくる三人。  ま、まさか…… 「これも結野のためと思って我慢してくれ、太郎」 「無駄な抵抗はしないほうがいいわよ、ブタロウ」 「新しい世界に旅立とう、砂戸太郎」  まさか、女装するのは、俺—— 「ちょ……ええええっ!? な、なんで俺がそんなこと——ぐわああああああああああ!?」  三人が俺に飛びかかってくる。必死で抵抗する俺を力ずくで押さえつける。 「なんで女装なんか……イ、イヤだあああああああああああああああ————っっ!」 「太郎、じっとしてろっ! ええと、まずはファンデーションを……」 「抵抗するんじゃねぇ! 殴るわよっ!」 「美緒、殴るなら顔以外にしておけ」 「ひぃいいぃいいいぃいいいいいいいいいいいいぃい————っっ!」  そして、約三十分後……  俺は、屈辱的な姿をさらすことになってしまった。  ファンデーションや口紅を塗られ、アイシャドウやらアイライナーやらよくわからないものを塗られ、ポニーテールのカツラをかぶらされ、服装はどこから用意したのか桜守高校の女子用の制服。つまりセーラー服。スカートがすーすーします。あと、ニーソックスまで履かされています。 「う、うううう……俺は汚れてしまった……」  俺は泣きそうになりながら、女座りのような格好で床に倒れ込んでいる。もはや立ち上がる気力さえなかった。  そんな俺を、先輩たちがぶしつけな視線で見下ろしている。もう死にたい…… 「お、おおお、これは予想以上に……」 「これ、マジでブタロウ? なんか美少女に見えるんだけど……」 「うむ、新たな被写体の誕生かもしれない」 「うわあ……タロー、かわいい……」 「へえ……あなた、女に生まれたほうがよかったんじゃない?」  五人がまじまじと俺を眺めている。  俺は—— 「はあ、はあ、はあ、はあ……」  この哀れな姿を見られていることに、ちょっとだけ興奮してしまっていた。  ああああああああ、みんなが女装した俺を見てる……こんな屈辱的な格好を見られてるんだ……はあ、はあ、はあ、はあ…… 「——っ!?」  ハッと我に返り、激しく首を横に振る。  お、おお、俺はこんなときでもマゾヒズム的な興奮を…… 「な、なんてこったい……」  女装した姿を見られることにドMな快感を覚える——そんなのがクセになってしまったら、俺はドMなだけではなく女装癖という属性まで獲得してしまうことに……ドMで女装趣味……そ、そんなふうに変態性をバージョンアップさせていったら、いずれ俺はすべての変態要素を内包する究極の変態神となってしまうのでは……やがて俺は地球上にいるすべての変態人間を支配する存在へと……変態新世界の神となった俺は変態たちを率いて真人間に宣戦布告……すべての真人間を掃討し、変態の変態による変態のための楽園を創るんだ……はあ、はあ、はあ、はあ…… 「い、生き残った真人間は……地下の強制変態収容所で変態人間に洗脳……」 「あんた……さっきからぶつぶつなにを言ってるの?」  石動先輩がジト目で言ってくる。 「え!? い、いえ、べつに……」  ほんと……俺はなにを言ってるんだろう。 「じゃあ、太郎。はじめるぞ」 「はじめるって……なにをだ?」  さっきのホスト設定みたいなのをやるのか?  辰吉は両腕を組みながら、告げる。 「二人とも女子で同じ制服を着ている。というわけで——次の設定は女子校だ」 「じょ、女子校?」 「ああ。女子校といえば……みちる先生、なんですか?」 「百合趣味」 「正解」  辰吉とみちる先生はぐっと親指を立て、うなずき合う。間宮さんがぽつりと「それは偏見よ……まあ、まったくないというわけでもないけど」とかつぶやいていた。 「じゃあ、そうだな……太郎と結野は愛を誓い合った恋人どうしということで、いまから二人で愛の言葉を囁き合ってくれ」 「はぁ? あ、愛の言葉って……いったいなにを言えばいいんだよ?」 「それは自分で考えろよ」  そんなこと言われても——俺と結野は困った顔を見合わせた。すると、みちる先生が、 「お困りのようだな。では、砂戸太郎のセリフは私が考えよう」  えっ、みちる先生が? なんか……ちょっと心配です。 「あ、あの……わたしのセリフは……」  結野がおずおずと言う。すると、今度は石動先輩が、 「じゃあ、嵐子のセリフはあたしが考えてあげるわ」  そして——  向かい合って立つ俺と結野に、辰吉が「二人とも準備はいいか?」と声をかける。俺たちはとりあえずうなずいて見せた。すぐ近くに、みちる先生と先輩がしゃがんでいる。二人はどこから用意したのか大きなスケッチブックを持っていて、そこに自分たちが考えたセリフを書いていくみたいだ。俺たちはそのカンペ通りに喋ればいいというわけである。  まずは俺のセリフだった。みちる先生がスケッチブックをぺらっとめくる—— 「嵐子お姉さま……あたし、お姉さまのことを考えると夜も眠れません。大好きです」  次は結野のセリフ。結野は微妙に顔を赤くしながらちらっと先輩のカンペに目をやり、 「うれしいわ……わたしも、タロ子さんのことが大好きよ。超LOVEなのよ」 「ほ、本当ですか嵐子お姉さま。ああ……なんて幸せなんでしょう。このまま時が止まってしまえばいいのに……」 「本当ね……本当に……本当に、あなたって子は……」  結野は少し躊躇《ためら》ってから、カンペの続きを読んだ。 「——淫乱で汚らしいメスブタなんだから」  思わず「え……?」と素の声が漏れてしまう。結野はさらに続ける。 「あなたみたいな淫乱ド変態娘、気持ち悪すぎて直視することができないわ。だからいますぐ自爆しなさい。この腐った家畜が」  ……あ、嵐子お姉さま、なんてドギツイ言葉を……はあ、はあ、はあ……  俺は息を荒げながら、みちる先生のカンペを読む。 「ああ、嵐子お姉さまの暴言は禁断の蜜の味……も、もっと、もっとこの汚らしいメスブタであるタロ子を酷い言葉で罵ってくださいっ! あ、あふう……」 「ふんっ、あなたブタのくせになに生意気に二足歩行してるのよ。さっさと四つん這いになりなさい。そして絶対服従の証としてわたしの膝にキスをするのよ」 「はいいいっ! ブタのくせに二本足で立ってすみませんでしたああ! これからは一生四つん這いで暮らしますのでどうかおゆるし——って、なんじゃこりゃああああっ!?」  思わず四つん這いになりかけていた俺は、途中でなんとか我に返り怒鳴り声を上げた。 「先輩! みちる先生! これのどこが愛の言葉なんですか!? 百合趣味なんですか!?」  石動先輩とみちる先生は顔を見合わせ、 「えっと……なんとなくというか、ついというか……ブタロウの顔を見てたら、罵らなくちゃいけないような気がしちゃって……」 「私は空気を読んで美緒の考えたセリフに合わせていただけだよ。私に罪はない」  こ、この人たちは……というか、結野も結野だ。先輩の考えたセリフをそのまま読んじゃって。そのたどたどしい口調が逆に俺のドM心を——って、いかん! いかんいかん! 「まったく……みんななにやってるんすか。まあいいや、これでオッケーってことで」  と、辰吉は言った。……い、いまのでオッケーなのか? なんで? 「じゃあ、女装した男子が大丈夫になったか試してみよう。太郎、結野の体に指先でちょっとだけ触れてくれ」 「え……でも……いきなり触れるなんて……」 「なに言ってんだ、期限まではあと三日しかないんだぜ? 指先でちょっと触れるぐらいはできないと、あと三日で男性恐怖症を治すなんて不可能だろ?」 「それは……そうかもしれないけど……」 「結野もいいか?」 「え? う、うん……」  結野は力んだ様子でうなずく。 「タ、タロー……お、お願いします……」  結野がそう言うのなら—— 「じゃあ……い、いくぞ?」 「は、はい」  俺は、緊張しながら指先を伸ばし——結野の手の甲にちょこんと触れた。 「…………」 「…………」  沈黙。  一秒が経った。  二秒が経った。  結野の鉄拳は飛んでこない。  せ、成功か!? 俺は顔を上げ、結野の様子をうかがった。  結野は——  顔を真っ青にしながら、右腕を大きく後ろに振り上げていた。 「ゆ……結野さん?」 「我慢したけど……我慢しようと思ったけど……やっぱり、や、ややや、やっぱり……」 「ゆう——」 「やっぱりこわいいいぃいぃいぃいいぃいいいィイイィイイィイ————っっっ!」 「ひぎゃあああああああああああああああああああああああああ————っっっ!」  タメた分だけ強力な一撃——結野の鉄球のような拳が俺の顔面に突き刺さった。  真後ろに吹っ飛ぶ俺の体。床に激突するように倒れても勢いはまだ収まらず、俺の体は床を三回転ぐらいした。部室にあった机や椅子をメチャクチャに弾き飛ばしながら。 「あーあ……女装してもこれか。どうやら俺の考えた方法じゃあ男性恐怖症を治すのは無理みたいだな」 「どっひぃ……うぇええイイい……ゲフッ……」  机や椅子の山に埋もれながら、俺は女装した格好で昇天していた。そんな俺を、みちる先生がデジタルカメラで撮影していたのだった。  学校を出て帰路につく。もちろん男子の格好で。女装などもうこりごりだと思った。スカートもニーソックスも二度と履きたくない。  自宅に戻った俺は、玄関のドアを開けた。 「ただいまー」  すると、母さんがリビングから顔を出し、 「あ、太郎さん。おかえりなさい」 「ああ、母さん。もう帰ってたんだな」  今日は姉貴も母さんも朝からどこかに出かけていて、もしかすると帰りは遅くなるかもとか言っていたのだ。まあ、ドアに鍵がかかってなかったから誰かいるとは思っていたけど——って、え……?  玄関に現れた母さんの姿を見て、一瞬思考が停止する。 「か、母さん! その格好はいったい……」  なんと、母さんはメイド服を着ていた。 「うふっ。これはですね……」  母さんは右手を頬に添えるような格好で、少し恥ずかしそうに笑う。 「今日お会いしたお知り合いの人にもらったんです。その人はまだ若い女性なのにメイド喫茶を経営してて……それで、店のメイド服を新するから古いタイプのやつをあげますって言われまして」 「…………」  もらうなよ、そんなもん。 「どうです? 似合いますか?」  母さんは両手でスカートの裾をちょこんとつまみ、軽くお辞儀をする。 「まあ……似合ってないこともないけど……」 「本当ですか? うれしいです」  と、母さんはご機嫌な様子。まあ本人が気に入ってるのなら別にいいけど…… 「太郎さんごはんまだですよね? いまから作りますから、ちょっと待っててください」  言って、母さんはキッチンに向かう。メイドの格好で。 「……はあ」  その後ろ姿を見送りながら、俺はなんとなくため息をついた。  ダイニングのテーブルに着く。しばらく待つと、 「ご主人様、お食事の用意ができましたよ〜」  母さんは弾んだ声で言いながら、テーブルにオムライスの載った皿を置く。にこにこしながらケチャップの蓋を開けると、オムライスに『タロウさんLOVE』という文字を書いてくれた。まったく必要のないサービスである。  母さんはテーブルに着くと、オムライスをすくったスプーンを俺のほうに向け、 「はい、太郎さん。あーんしてください」  俺は「ぶっ!」と吹き出し、 「な、なにやってんだよ母さん!」 「あーんしてください」 「しねえよ! そんな恥ずかしいことするわけねえだろうが!」 「あーんしてください」 「だからしねえって!」 「あーんして——」 「人の話を聞けいっっ! アホか!」  力いっぱい怒鳴ると——  母さんはスプーンを持ったままぶわっと涙を流した。  大人とは思えないその泣きっぷりに、俺はぎょっとしてしまう。 「うう……ふぇ……しくしく……」 「こ、こら! 泣くなよそんぐらいで!」 「だって……」  母さんはえぐえぐ泣きながら、 「私、太郎さんが喜んでくれるんじゃないかと思ってこんな格好を……いい年こいてメイド服なんか着たりしたのに……」 「じ、自覚はあったんだな」 「それなのに、太郎さんはあーんもさせてくれなくて……そんなのって……そんなのって……うええ————んっ!」 「だから泣くなって!」 「滑稽ですうっ! 私は滑稽なんですよおおおお——っっ!」 「滑稽なのは否定しないけど、とりあえず泣きやんでくれ!」  どれだけ言っても母さんは泣きやまない。俺は盛大なため息をつき、 「……わかったよ。一回だけなら、我慢する。だからもう泣くのは——」 「本当ですか!?」  母さん、一瞬で笑顔。……もしかして、さっきのは嘘泣きだったんですか? 「わーいわーい、うれしいです。じゃあさっそく——」  母さんは興奮のせいか頬を上気させながら、オムライスをすくったスプーンを俺の口元に持ってくる。 「はい、太郎さん。あーん……」 「…………」  あまりの恥ずかしさに顔から火が出そう。俺は何度か躊躇してからぱくっとスプーンの先端をくわえた。もぐもぐとオムライスを咀嚼する。やれやれ……  母さんはスプーンを俺に手渡すと、当然のように、 「じゃあ、今度は私にあーんをしてください」 「なぜだっ!?」 「なにかをもらったら、それにはお返しをしないとダメなんですよ。それが人としての礼儀なんです」 「ふ、ふざけんな! なんで——だから泣くなよおおおおおおっっ!」  もういい。ヤケクソだ。  俺はスプーンでオムライスをすくい、 「言っとくけど、これで絶対に最後だからな。もう追加オプションはなしだ」 「はいっ! 了解ですっ!」  テンションが上がりまくってる母さんは、びしっと敬礼の格好をしながら言う。 「じゃあ……」  俺はスプーンをゆっくりと母さんの唇に近づける。頬を朱の色に染めた母さんは目をつぶりながらお口を大きく開けている。スプーンの先端が母さんの口の中に——  そのときだった。 「太郎ちゃ————————んっっっ!」  玄関のドアが開く音がしたかと思うと、外から帰ってきた姉貴が廊下を駆け抜けすごい勢いで俺の懐に飛び込んできた。俺は「ぬあっ!?」と叫びながらスプーンを床に落としてしまう。 「ねえ、太郎ちゃん! お姉ちゃんの格好見て見て〜」 「格好って——ええ!? あ、姉貴、その服はいったい……」 「えへっ」  姉貴は笑いながら俺から離れ、 「友達にもらったんだよぉ。かわいいでしょ?」  言いながら、俺の目の前でくるりと回転。  姉貴は——なぜかメイド服なんぞを着たりしていた。母さんと同じく。 「友達にメイド服マニアの女の子がいてね、その子からもらったのっ!」  もらうなよ、そんなもん。つーかメイド服マニアってなんだよ。 「姉貴……まさか、その格好で家まで帰ってきたのか?」 「うん、そうだよ〜。太郎ちゃんに一秒でも早く見せたかったから。ねえ、かわいい? メイドお姉ちゃんかわいい?」  両手を広げ、ちょっと小首をかしげるようにして、にぱっと笑顔。 「…………」  呆れて声が出ない。  と—— 「……静香さん」  かすれた声でつぶやいたのは、母さんだった。  母さんは無表情で虚空を見つめながら、ぷるぷる全身を震わせている。辺りの空間に負のオーラをまき散らしながら。  母さんの視線がゆっくりと移動し、床のある一点で停止した。そこにあるのはスプーンとオムライス。  姉貴は母さんの姿を見ると、「うわっ!」と後ずさりして、 「お母さん、その格好はなに? わたしと同じメイド服? いい年こいてなにしてるんだよ」  ぴしっ——と母さんの表情にひびが入った。 「せっかくの……」  母さんの体の震えが大きくなっていく。両目から血の涙が流れていた。 「せっかくの……太郎さんのあーんが……間接キッスが……チャンスがあああああ……」 「どうしたのお母さん? 自分の滑稽さに悲しくなっちゃったの?」  そう姉貴が言った瞬間——俺の目の前の空間を『なにか』が通過していた。 「——!?」  あまりに高速だったので視認することができない。母さんが座っているほうから飛んできたそれは姉貴の頭の端を掠《かす》め——姉貴の髪が何本かぱらりと落ちる。  母さんは幽鬼のようにゆらりと立ち上がる。その両手の人差し指の先には、ドーナツのように中に穴が空いた金属製の円盤が回っていた。それを見た俺は、 「あ、あれって漫画とかで見たことあるぞ! 確か古代インドで用いられたチャクラムという名前の投擲武器で——チャ、チャクラム!? なんで母さんがそんなの持ってんの!?」 「今日という今日はもうゆるせない……ゆるせないです……」  母さんは姉貴に向き直る。どうやら姉貴の髪を切ったのは母さんが投擲したチャクラムらしい。 「ゆるせないんですよおおおおおおおおおおおおおお————っっ!」  叫びながら、母さんは無数のチャクラムを姉貴に向かって投擲した。  回転しながら姉貴の体に迫る金属製の円盤。その外側には刃が付いている。  姉貴は—— 「ふんっ」  不敵に笑うと、メイド服のスカートの中に下から両手を突っ込む。そして。 「——!?」  驚愕に染まったのは母さんの顔だった。  母さんの放ったチャクラムは、姉貴が投擲した手裏剣によってぜんぶ打ち落とされてしまったのだ。ああ、手裏剣ね、なるほど……もうツッコむのも疲れたです…… 「甘いね、お母さん」 「ふぬぬぬぬぬ……」  母さんと姉貴の視線がぎらりと交差する。二人の瞳の中にははっきりと『殺』の文字。 「くらえですううううううううううううううううううううううう————っっっ!」 「ひょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお————っっっ!」  二人のメイドさんが放つ無数のチャクラムと手裏剣が、ダイニングを縦横無尽に切り裂く。一瞬で修羅場状態。 「ぎゃ、ぎゃああああああああああっ!? やめろおおおおおおおおっ! 家がメチャクチャになっちゃうだろうがあああ——っっ! ちょ、ちょっと……た、たたた、頼むからやめてくださいいいいいいいいいいいいい————っっっ!」  戦闘民族と化した二人には、俺の声は届かなかった。  ——その日の夜は、コンビニのバイトがある日だった。  レジカウンターに立ち、ぼんやりしながら明日のことを考える。  みちる先生と辰吉が考えた治療方法が失敗に終わり、明日は俺が考えた治療方法を実践する日だった。だが……いまだになにも思いついていない。 「ううむ……」  腕を組み、唸る。いったいどんな方法がいいのやら。  あまりになにも思いつかないので、俺はコンビニの店長である道明寺《どうみょうじ》さんに相談してみようと思っていた。俺よりも人生経験が豊かである店長なら、もしかしたらいいアドバイスをしてくれるかもしれない。コンビニに来る前まではそう思っていたのだが……  俺は隣に立つ店長にちらりと目線を送る。店長は一流ホストみたいにかっこいい外見をした男性だった。そのイケメン店長は、いま——  喪服を着ていた。 「うう……ぐす……」  しくしくと涙を流す店長。その腕には、遺影が抱えられている。  遺影には——金髪の少女が写っていた。  二次元の金髪美少女が。つまり美少女のイラストが。 「うぇ……うぇぐ……」 「…………」 「ふぇ……レイバーちゃん……レイバーちゃぁああん……」 「…………」  聞くところによると、店長は昨日、とある美少女ゲームをクリアーしたらしい。そのゲームのヒロインである金髪美少女——どうやらレイバーという名前らしい——にかつてないほどの恋愛感情を抱いてしまった店長だったが、そのヒロインはストーリーの最後で死んでしまったのだという。だから、店長はその少女の喪に服している……らしい。  そう、店長は超かっこいい外見をしていながら、二次元の美少女しか愛することのできないスーパーオタク人だった。 「レ、レレ、レイバーちゃん……僕はレイバーちゃんのことを一生忘れないからね……ひっぐ……」 「…………」  大の大人が二次元のイラストを胸に抱いてマジ泣きしている。これはかなり常軌を逸した光景であった。はたして俺はこんなところでバイトをしていていいのだろうか。  俺はかなり迷ったが、店長が少し落ち着いた頃を見計らって相談してみることにした。 「あ、あの、店長……ちょっと相談があるんですけど」 「ぐすん……なんだい、砂戸くん」 「俺の知り合いにですね、男性恐怖症……というか、ちょっと男が苦手な女の子がいて」 「それはもちろん二次元の話だよね?」 「いや、三次元の話に決まってますよ。基本を二次元にしないでください」 「ふおおおぉおお……レ、レイバーちゃあんんん!」 「ぬおっ!? きゅ、急に叫び声を上げないでくださいよっ」 「あ、ごめんね。どうぞ先を続けてください」 「は、はあ……それでですね、その女の子の男に対する苦手意識をなくすためにはどうすればいいのか、その方法を考えてて……」 「僕はレイバーちゃんを生き返らせる方法が知りたいよ。どうすればいいと思う?」 「そういう同人誌でも書けばいいんじゃないですか? いや、そんなことはどうでもよくて……」 「ど、どどどどうでもいいってなんだっ!? 言っていいことと悪いことがあるだろう!?」  うわぁ、マジギレだ……大の大人がこんなことでマジギレしちゃった。 「す、すみません」  と、俺はドン引きしながらも一応あやまった。 「いや、こちらこそ取り乱してしまってごめん。でも、誰だって大切なものを傷つけられたら怒ってしまうよね」 「あ、あはは、そうですよね」  俺は愛想笑い百パーセントで言った。 「えっと……それで話を元に戻すんですが、女の子の男に対する苦手意識をなくす方法を考えてるんですけど、まったくいい方法が思い浮かばなくて。それで店長に相談してみようと思ったんです。店長、なんかいい方法思いつかないですか?」  尋ねると、店長は少しのあいだ考え—— 「方法ならあるよ」 「え? マ、マジですか?」 「うん」  店長は自信ありげにうなずき、その方法を俺に教えてくれた。  その翌日。五日間勝負の四日目。  部室の奥にある部屋。結野はそこに座っていた。  目の前にはテレビとゲーム機がある。結野はゲーム機のコントローラーを握っている。  そして、ゲームの画面には、王子様のような美少年キャラクターの上半身が映っていた。 「…………」  結野は黙々とコントローラーのボタンを押し、ゲームを進めている——テレビ画面に表示されている、女性向け恋愛アドベンチャーゲームを。  店長に教えてもらった方法がこれだった。男性恐怖症である少女に、店長おすすめの女性向け恋愛アドベンチャーゲームをプレイさせる。画面の中にいるのは、超イケメンで頭がよくて運動神経抜群で金持ちで優しくて頼りがいがあるという完璧な王子様系美少年。その美少年との甘い一時《ひととき》を過ごすことによって、少女はいつしか美少年に恋心を抱き、男性への苦手意識も消えてしまっているという寸法だった。  その方法に従い、結野は黙々とゲームを続けている。俺、石動先輩、辰吉、みちる先生、間宮さんに見守られながら。 「…………」  はっきり言って、こんな方法で男性恐怖症が治るはずがない。断言できる。それなのに、どうして俺は、店長の考えたこの方法を試してみようなどと思ったのだろう。いくらなにも思いつかなかったからって……俺は激しく後悔していた。  それに—— 「なんなのよこれ……このブタ野郎が……」 「この変態、ふざけてるの? いい加減にしてほしいわ……」  石動先輩と間宮さんが強烈な目つきで俺を睨んでいた。ああああ、確かにこの方法はまずかったと思うけど、そんなに睨まないで……はあ、はあ、はあ……  やがて、 「あ、あの……クリアーしたみたいだけど……」  結野がおずおずと言う。確かに、画面にはゲーム終了後のエンドロールが流れていた。 「やれやれ、やっと終わったようだな」 「五時間は長かった……」  みちる先生と辰吉がうんざりとつぶやく。うう、すみません…… 「じゃあ……」  両腕を組んだ石動先輩が、不機嫌そうな顔で告げる。 「嵐子の男性恐怖症が治ってるか、試してみましょう。いつもの方法で」  いつもの方法ってことは……また俺は結野に殴られるのか。 「そのあと、あたしもブタロウを殴るわ」 「なぜ!?」 「貴重な時間を無駄にしたおしおきよ」 「そ、そんなあ……」  俺は泣きそうな顔で言った。  結野の男性恐怖症が治っているか確かめてみたが、当然のごとく治っていなくて、俺は結野に思いっきり殴られた。石動先輩にもしこたま殴られた。 「まったく……今日もアホみたいな方法だったわね。本当に嵐子の恐怖症を治すつもりがあるのかしら?」  部屋の隅でゴミのように放置されている俺を睨むように見つめながら、間宮さんはため息混じりで言う。 「嵐子、さっさと帰るわよ」 「う、うん」  間宮さんに促され、結野は部室の扉に向かう。  五日間勝負がはじまってから、結野は毎日間宮さんといっしょに帰っている。普段なら俺は結野といっしょに下校するのだが、間宮さんががっちりガードしているのでそれはできなかった。俺は二人が帰ってちょっと時間をおいてから部室を出ることにしている。  と—— 「ゆ、由美っ!」  突然、辰吉が間宮さんに声をかけた。  間宮さんはぴくりと体を震わせ、扉に手をかけた体勢で停止した。 「あの、さ……」  辰吉はおずおずと間宮さんに告げる。 「一つだけ……訊きたいことがあるんだ」  問宮さんはなにも言わず、背中で辰吉の言葉を聞いている。 「ずっと訊こうと思ってたんだけど、なかなか言えなくて……でも、明日は勝負最終日でごたごたしてるだろうから、訊くなら今日しかないと思って……」  辰吉はそんなことをぶつぶつ言ってから、意を決したように顔を上げ、 「どうして……」  懇願するような口調で尋ねた。 「どうして、急に連絡をくれなくなったんだ? 俺、いくら考えてもその理由がわからなくて……」 「…………」 「それがずっと気になってて……だから……」  間宮さんは扉に手をかけたまま彫像のように固まっている。結野はおろおろしたような顔で間宮さんと辰吉を交互に見つめていた、 「なあ、由美。教えてくれないか? どうして——」 「それを聞いたら」  間宮さんは辰吉の顔を見ないまま、 「それを聞いたら、あなたの気持ちは納得するの?」 「え? あ、ああ……たぶん」 「そう……」  間宮さんはそっと息を吐くと、 「理由は——あなたのことが好きじゃなくなったから」 「え……?」 「もともと暇つぶしで付き合ったみたいなものだったし。連絡しなくなった理由はそれだけ。ほかに特別な理由はないわ。……どう? 納得した?」 「…………」  辰吉の顔が次第にうつむいていく。部室には気まずい空気が流れていた。 「じゃあ、ね……」  言って——  間宮さんは結野を連れて部室を出て行った。  地元の駅で辰吉と別れ、俺は自宅に向かって歩いていた。  帰り道の辰吉はずっと落ち込んでるような表情をしていた。まあ、昔付き合ってた女の子にあんなことを言われたら誰だって落ち込むだろう。あれは……さすがに酷すぎる。  でも——俺は、間宮さんが部室を出て行くときに浮かべた表情を思い出していた。  辰吉の立つ場所からは角度的に見えなかったと思う。だが、俺がゴミのように放置されていた場所からは、間宮さんが部室を出るときに一瞬浮かべた表情を見ることができた。彼女の、まるで泣き出しそうな表情を。どうして彼女があんな表情を浮かべたのか、俺にはまったくわからなかったのだけれども。 「それにしても……体中が痛えな……」  歩きながらつぶやく。  ここ数日、結野の男性恐怖症が治っているかの判定という名目で、俺はしこたま殴られた。殴られているときは俺の病気が発動しているのでとても気持ちいいのだが、それが過ぎるとただ鈍痛が残るのみ。もう体はボロボロです。  頭上には灰色の雲が横たわり、強い風が俺の髪や服を乱す。俺は顔をしかめ、 「なんか風が強いな……ああそっか、そういえば台風が近づいてるんだった」  確か今朝のニュースで言っていた。台風が接近しているらしいと。この風はその台風の影響らしい。 「台風か……」  頭上を仰ぐようにしながら、つぶやく。 「明日は最後の一日なのに……」  約束の五日間。その最後の日。もし明日までに結野の男性恐怖症が治らなければ、結野は間宮さんの通う女子校に転校させられてしまう。  にもかかわらず……俺にはあまり焦りというものがなかった。  そのとき、ポケットの中の携帯電話が短く鳴る。  メールの着信だった。発信者は結野だ。 『タローの家の近くにある公園で待ってます』  近くの公園で待ってる?  俺の家の近くといえば、踏切を渡ってすぐのところにある小さな公園しか思いつかない。幼い頃よく姉貴と遊んだ公園だ。結野は本当にそこにいるのだろうか。 「まあいいや。すぐ近くだし、行ってみるか」  踏切を渡って左折すると、すぐその公園は見えてくる。  滑り台と砂場とベンチしかない小さな公園。ペンキの剥がれかけたベンチの一つに、制服姿の結野が座っていた。本当に待ってやがった。 「結野」  ベンチに近づき、声をかける。  うつむき加減だった結野はハッとして顔を上げた。風で乱れた髪をなんだかあたふたした様子で整えながら、立ち上がる。 「タロー……ご、ごめんね。急に呼び出したりなんかして」 「まあそれは別にいいけど……なんか用か?」 「よ、用というか……ええっと……」  とりあえずベンチに並んで座る。  結野はちらりと俺の顔をうかがうようにして、 「なんか……ごめんなさい」  と、申し訳なさそうに言った。 「へ? なにが?」  俺は首をかしげる。本当になんのことを言ってるのかわからなかった。 「由美がいろいろお騒がせしちゃって……あと、わたしもタローをいっぱい殴っちゃったし……」 「ああ……」  俺はぼんやりとうなずく。それから辺りをキョロキョロと見回し、 「そういえば間宮さんは……?」 「由美には内緒にして来たの。ちょっと買い物に行ってくるって言って。だって、いまからタローに会いに行くっていったら、由美は絶対にゆるしてくれないもん」  結野はほほ笑みながら言う。 「確かに……」  間宮さんは変態である俺を毛嫌いしているのだ。というか汚物のように嫌悪しているのだ。 「迷惑かけてごめん。でも……あんまり由美のことを悪く思わないでほしいの」  結野はおなかの前で両指を絡ませるようにしながら、声を落とす。 「由美はただ、わたしのことが心配なだけなの。だから、わたしを女子校に転校させようと……」 「それは……まあ、わかるけど」  間宮さんが結野のことを心から心配しているということは、俺を含めた第二ボランティア部の全員がわかっていることだろう。たぶん石動先輩も。 「だから、美緒さんを焚きつけてあんな勝負を……きっと由美は、第二ボランティア部のみんながどんなに必死になってもわたしの恐怖症を治すことはできないってことを、わたしに見せつけたかったんだと思う。ここにいてもわたしの恐怖症は絶対に治らないから由美の女子校に転校しよう……そんなふうにわたしに思わせるために」 「なるほど……」  どんなことをしても、たった五日間では結野の男性恐怖症を治すことはできない。間宮さんにだってそんなことはわかっているだろう。彼女の本当の目的は勝負に勝つことではなく、俺たちの無力な様を結野に見せつけることなのかもしれない。結野が俺たちに失望するようにし向け、女子校に転校したいと思わせるために。いや、まあ、これはただの推測で間宮さんが本当はどう思ってるかなど彼女にしかわからないのだが。 「でも——」  結野は俺を見上げながら、 「でも、大丈夫だから。もしも明日までにわたしの男性恐怖症が治らなくても、わたしは転校なんか絶対にしないから。由美にもちゃんとそう言うから」  と、はっきりとした声で告げた。  それから、ちょっといたずらっぽい調子で、こう付け加えた。 「そ、それに……わたしが転校しちゃったら、タローだって悲しいでしょ?」  その言葉に俺の口元がゆるむ。  そう、俺が焦りを感じなかった理由——きっとそれは、たとえ勝負に負けても結野が転校することはないだろうと楽観的に思っていたから。いくら間宮さんが転校させると息巻いていても、本人にその意思がなければどうしようもない。最終的に決めるのは結野自身なのだから。  でも……こうやって結野の口から直接聞くと、なんだかすごく安心する。もしかしたらもしかするかも、強引な間宮さんに無理矢理連れ去られてしまうかも、そんな心配もなかったわけじゃないから。 「あ、あの……」  結野は上目遣いで俺を見つめながら、ちょっと拗ねたような顔をしている。照れた感じで顔を赤くし、ひかえめな口調で、 「こ、こういうときは、ウソでも『ああ、おまえが転校したら悲しいよ」とか言うものじゃないんですか……?」  言ったあと、さらに顔を赤くする。  そんなに恥ずかしいなら言わなきゃいいのに——俺は苦笑しながら、そして自分を見上げてくる大きな瞳にちょっとドギマギしながら、告げた。 「ああ、おまえが転校したら悲しい」 「……なんか心がこもってない気がする。ほとんどわたしが言った通りだし」 「そんなことねえって。俺、マジで安心したんだからよ。おまえが転校しないって言ってくれて」  と、これは本心。でもちょっと恥ずかしかったから、冗談っぽく言ってしまう。 「……ほんと?」 「ああ、ほんとだ」 「そっか……」  結野は赤い顔にほんのりと笑みを浮かべて、胸の前でぐっと両拳を握ったりする。 「よしっ、これで大丈夫だ」 「大丈夫って……なにが?」 「えへへ……うんとね、じつは今夜にでも、由美に『わたしは絶対に転校しないから』って伝えようと思ってて……」  結野は重ねた両手を太ももの上に置き、 「でも、由美っていろんな意味ですごく強い子だから、気合い入れていかなきゃ負けちゃうかもとか思っちゃって。だから、決闘の前にタローに会って『絶対に転校したくない』って気持ちを充電したかったの。うん、これで充電完了です」 「決闘ってそんな大げさな……」  それに、なんで俺に会うことが充電とかになったりするんだろう。そう尋ねようとしたとき——  背筋に稲妻のような寒気が走った。ぞくぞくぞくぞくつ! 「はぶっふぁ!?」 「タ、タロー? どうしたの?」  この寒気は……この視線は……俺はギギギと首を動かした。  ベンチ裏の茂みだった。  輝く二つの魔眼。茂みに体を伏せるような格好で——間宮さんが隠れていた。 「ひ、ひいいいいいいいいいいい————っ!?」  思わず叫び声を上げてしまう。ほとんどホラーな状況だった。 「え? ゆ、由美!?」  俺の視線を追って間宮さんの姿に気づいた結野が、驚いた声を上げる。  間宮さんはむっつりした顔で、がばっと立ち上がった。 「由美、どうしてそんなところに……」 「買い物に行くって言った嵐子の表情が少しおかしかったから、あとをつけてみたのよ。で、誰かを待ってるみたいだったから隠れて様子をうかがってたの。嵐子がわたしに嘘をついてまで誰に会おうとしているのか気になって。……まあ、予想はだいたいついていたけど」  隠れて様子を……じゃあ、俺が来る前から間宮さんはここにいたのか。もしかすると俺と結野の会話もぜんぶ聞かれていたのかもしれない。というか、わざわざこんなところに隠れなくても…… 「あ、あの、由美……」 「お話は終わったみたいだし、そろそろ帰りましょう」  間宮さんは死ぬほど不機嫌そうな顔で言うと、結野の手を引いて公園の出入り口に向かってずんずん歩いていった。 「ちょ……ゆ、由美……」  間宮さんに引っ張られるようにして、結野は公園を出て行ってしまう。容赦なく連れ去られていく。 「…………」  俺はぽかんとしたまま、二人の背中を見送ることしかできなかった。  その夜——  自室のベッドの上で雑誌を読んでいると、携帯電話に着信が入った。  ディスプレイには『公衆電話』と表示されている。 「公衆電話から……?」  いったい誰だろう。俺は通話ボタンを押し、携帯を耳に当てた。 『……砂戸くん』  女性の声だった。この声は—— 『わたし、間宮だけど……』 「え? ま、間宮さん?」 『うん……』  どうして間宮さんが俺に電話を? 「えっと……どうしたんだ? なんか用?」 『それは……』  間宮さんは電話の向こうで一つ息をつくと、沈んだ声で、 『さっきね……嵐子とケンカしちゃったの』 「え?」 『嵐子がね、女子校に転校なんか絶対にしないって言ってきて……それがきっかけで口論になって、わたし、嵐子の家を飛び出してきちゃった……』 「飛び出してきたって……」 『ほんと、びっくりした。あのおとなしい嵐子があんなふうに怒鳴るのを聞いたのははじめてだったから。それだけ第一ボランティア部を離れるのが嫌だったのね……』 「…………」  結野の奴、本当に間宮さんと決闘したんだな……  あいつは誰かと言い争いを望むような性格じゃないだろう。しかも相手は幼い頃からの親友である間宮さん。きっと結野はとても嫌だっただろうし、苦しかったはずだ。それでもあいつは、第二ボランティア部に残りたくて、親友と戦ったんだ。そう考えるとなんだか胸が熱くなった。 『でもね……』  間宮さんはゆっくりとした口調で告げる。 『わたしが嵐子を女子校に転校させたいって思ったのは、ただ嵐子の男性恐怖症を心配してのことだけじゃないのよ」 「え……? それは……」  間宮さんは少しのあいだ躊躇《ためら》ったあと、 『嵐子には——男性恐怖症よりも深刻な秘密があるの』  と、言った。 「男性恐怖症よりも深刻な秘密……?」 『そう。わたしが嵐子を転校させたいと思ったのは、その秘密のせいなのよ。その秘密をあなたたちに知られる前に、嵐子を転校させたかった。もし、その秘密を知ってしまったら……あなたたちはとても傷ついてしまうと思うから。もちろん嵐子も』 「…………」  俺たちも結野も傷ついてしまう……その秘密とはいったい…… 『わたし、どうしていいのかわからなくなって……だから、あなたに電話したの」  鳴咽《おえつ》の混じったような声で、間宮さんはつぶやく。 『このままだと大変なことになってしまう。だからわたしは決心した。嵐子の秘密を、あなたにだけ打ち明けようって。……正直に言うと、もうわたし一人で抱え込むのは限界なのよ。お願い、砂戸くん。わたしの話を聞いて。わたしと嵐子をたすけて』 「結野の秘密……」  携帯を握る右手に力がこもる。心音が加速していく。  男性恐怖症よりも深刻な結野の秘密を、間宮さんは俺だけに伝えるという……はたして俺はその秘密の重みに耐えられるだろうか。その秘密を聞いてしまった俺は、これまでと同じような気持ちで結野と接することができるだろうか。それを考えると、すごく怖くなった。  でも—— 「……わかった。俺でよければ話を聞くよ」  俺ははっきりとそう告げた。 『——ありがとう。砂戸くんならそう言ってくれると思った」  間宮さんは震える声で言った。 『電話で話せるような内容じゃないから、どこかで会って話を……そうだ、じゃあいまから第二ボランティア部の部室に来てくれない?」 「部室に?」 『うん、あそこだとゆっくり話ができると思うから……ダメかな?』  俺はちらりと部屋にある時計に目をやった。午後九時三十分。終電までにはまだ三時間近くある。 「わかった、いまから行くよ。部室に着くのは三十分後くらいになると思うけど……」 『うん、待ってる。本当にありがとう、砂戸くん。嵐子があなたを……気に入ってる理由、少しわかったような気がする』  間宮さんは似合わないほどしおらしい口調で言ってから、 『じゃあ、あとで……』  最後にそう言って、通話を切った。  薄暗い闇の中を、俺は一人歩いていた。  頭上で巻いた風がヒュウと高い音を鳴らす。公園で結野と会ったときよりもさらに風は強くなっている。雨が降っていないのが不幸中の幸いだ。  桜守駅から校舎へ向かいながら、俺は結野のことを考えていた。  結野の秘密……  男性恐怖症よりも深刻な秘密、そう間宮さんは言った。いったいそれはどんなものなのだろう。まったく想像がつかなかった。  学校にたどり着く。  夜なので校門は閉まっている。俺は裏門のほうに向かった。裏門ももちろん閉まっているのだが、こちらの門は胸ぐらいまでの高さしかないので簡単に越えることができる。間宮さんならこんな低い門を越えるのは朝飯前だろうし、問題なく侵入できるはずだ。  こっそりと裏門を越え、部室に向かう。部室の扉の隙間から微かに光が漏れていた。どうやら間宮さんはもう来ているらしい。俺は扉を開け、中に入った。  部室の中を見回すが、間宮さんの姿はない。ということは奥の部屋にいるのか。俺は「間宮さん……」とひかえめに声をかけながら、奥の部屋に顔を覗かせた。  そして俺は「へぶっ!」と変な声を上げた。  奥の部屋に横たわる人影。それは間宮さん——ではなかった。  俺を目を大きく見開き、その映像を脳に送る。  奥の部屋にはなぜか布団が敷かれてあった。そこに仰向けになっているのは—— 「い、石動先輩!?」  そう、間違いなく石動先輩だった。  そして、まったく意味不明なのだが、先輩は服を着ていなかった。  ブラジャーとショーツ。身につけているのはそれだけ。白くてシンプルな感じのするブラジャーが先輩の薄い胸をやわらかく包み、真ん中に小さなリボンのついたかわいらしいショーツが下半身を隠している。幻想的なほどに白くて美しい先輩の肢体が、二つのわずかな布地に守られただけの姿で、俺の目の前にあった。すぐ折れてしまいそうなほど細い足首、滑らかな太もも、きゅっとしまったウエスト、おなかの真ん中にあるかわいらしいおへそ、静脈が透けて見える胸元、魔性の白さを放つ首筋、長い髪に埋もれる小さくて美しいお顔は小首をかしげるような感じで横たわり…… 「お、え、う、い、あ……」  な、なな、なぜ先輩がここに——しかもこんな格好で、ででで——  一瞬、自分がなんのためにここにいるのか忘れてしまった。それほど混乱していた。 「せ、先輩っ!」  状況をまったく把握できないまま、とりあえず奥の部屋に上がり込み先輩に近づく。 「先輩、どうしてこんなところに……」  と—— 「……ブ、ブタロウ?」  先輩の濡れたような瞳が俺を見上げる。どうやら眠っていたわけではないらしい。  先輩は体を微かに震わせながら、なんとか上半身を持ち上げる。呼吸が少し速い。それに、頬も上気していて、なんだか熱中症にでもなったみたいだった。その様子がどういうわけか妙に色っぽく見えてしまって困る。非常に困る。 「ブタロウ……」  先輩はかすれるような声で言いながら、俺の両肩に手を置く。ブラジャーの隙間から白い胸元が覗き、目の前に先輩の艶っぽい表情があり、熱くて甘い吐息が俺を襲い、なんというか……り、理性が飛んじゃいそうでやばいんですが……  いや——そんなことを考えている場合ではない。 「せ、先輩っ! いったいどうしたんですかっ!?」  明らかに先輩の様子はおかしい。もしかして、本当に熱中症とか……  くたっ、と力をなくした先輩の体が、俺の胸の中に寄りかかってくる。剥き出しの素肌が俺に触れてくる。その瞬間、脳内で火花が散った。その火花を超人的な理性で消火する。  石動先輩はとろんとした瞳で俺を見つめながら、 「ブタロウ……は、早く逃げて……」  と、そんなことを言った。 「え?」  逃げて?  先輩はそう言ったのか? 「そ、それはどういう——」 「これは、罠なのよ……だから……」  そう先輩がつぶやいた瞬間——俺の背後で物音がした。  反射的に振り返る。俺は「え……?」と大きく目を見開いた。  部屋の入り口に立ち、愕然とした表情で俺たちを……下着姿の石動先輩を胸に抱きしめる俺を見下ろしていたのは、 「ウソ……」  ——結野だった。 第四章 そして彼女は最後に…… 「ウソ……」  握った右拳を口元に当てながら、結野は俺と石動先輩を見下ろしている。細い肩を小刻みに震わせ、紙のように白い顔をしながら、俺たちを見下ろしている。 「ゆ……結野っ!?」  ど、どうして結野がここに—— 「ウソ……ウソだよ、こんなの……」  結野は目の縁を真っ赤に染めながら、震える声でつぶやいていた。  この状況はまずい。非常にまずい。なにがどうまずいのかはわからないが、とにかくかなりまずい。そう俺の本能が告げている。 「タローと美緒さんが……そ、そんな……」 「——残念ながら、嘘じゃないわ」  と、落ち着いた声音で言ったのは——  結野の背後に立っていた、間宮さんだった。 「ま、間宮さんっ!?」 「砂戸くん、ごめんなさい」  言って、間宮さんは少しだけ頭を下げる。 「え……?」 「わたし、あのとき聞いたことを嵐子に喋ってしまったの。あなたに口止めされていたあのことを」 「……?」  さっぱり——さっぱり意味がわからない。あのことってなんだ? 「わたしが桜守町に来た日の夜、わたしはこっそりあなたの部屋にお邪魔したよね」 「あ、ああ……」  あのとき間宮さんは、話がしたかったからと言って俺の部屋に窓から侵入してきたのだ。結野には内緒で俺と一度話しておきたかったのだと。 「あのとき、わたしはあなたにマッサージしたわ。覚えてる?」 「お、覚えてるよ」  あの極上のマッサージは忘れようと思っても忘れられるものじゃない。 「わたしにマッサージされて骨抜きになったあなたは、わたしにこんな秘密を語ってくれたじゃない。じつは、俺と石動先輩は付き合ってるんだ——って」 「はあ!?」  間宮さんはなにを言ってるんだ? 俺はそんなこと言った覚えはないし、そもそも俺と石動先輩が恋人として付き合ってるという事実もない。意味不明だ。 「本当に驚いたわ。まさかあなたたちが付き合ってただなんて。それに、こんなことも言ってたわよね。自分と石動先輩は、夜な夜な部室で秘密の逢瀬を繰り返してるって。自分と会っているときの石動先輩は、人なつっこい猫みたいに素直で従順でかわいらしいんだ、とか……」 「お、逢瀬!? 素直で従順でかわいらしい!?」  あり得ない。ありとあらゆるポイントがいろんな意味であり得ない。  間宮さんは大げさにため息をつき、 「ごめんね。わたし、そのことを嵐子に喋ってしまったの。嵐子はなかなか信じてくれなかったけど、だったら今夜部室に侵入して確かめてみようってことになって……そしたら、ちょうどいいところだったあなたたちの姿を目撃してしまったというわけ」 「…………」  俺は唖然としながら間宮さんを見つめていた。 「え、えっと……間宮さん」 「ん?」 「あ、あの……俺をここに呼び出したのは間宮さんだろ? 結野の秘密を、俺だけに伝えるからって……」 「砂戸くん」  間宮さんは冷たい目で俺を見下ろす。 「白々しい嘘はやめてくれない? 見苦しいわよ」 「…………」  えっと、ええっと——なんかもう意味が……  そのとき、俺の脳裏に先輩の言葉がよみがえる。 『これは、罠なのよ……だから……』  俺はハッとして間宮さんを見上げた。  間宮さんはすんごい邪悪な顔をしていた。 「ま、まさか……」  これは——間宮さんの仕組んだ罠?  じゃあ、結野には男性恐怖症よりも深刻な秘密があるって話は、まったくの嘘っぱち? 「……マ、マジかよ」  ひどい。そこまでやるか、普通。 「タローと……美緒さんが……」  つぶやくように言ったのは、結野だった。  結野は両拳を胸の前で重ね、まるで祈るような格好をしながら、華奢な肩を震わせていた。その脆く壊れそうな表情に、俺の鼓動と呼吸が一瞬止まる。 「そっか……二人は、もう……」  そして——  結野は俺たちに背を向け、逃げ出すように部室を出て行った。 「ゆ、結野っ!」  立ち上がって追いかけたかったのだが、力なく自分の胸に体をあずける先輩を放り出すこともできず、俺はただ遠ざかっていく結野の背中を見つめることしかできなかった。 「嵐子、待って! あなたにはわたしがいるじゃないの! わたしがあなたを一生守ってあげるから! あんな変態、どうでもいいじゃないの!」  叫びながら、間宮さんが結野を追いかけていく。 「…………」  怒りをぶつける相手も失ってしまった俺は、頭の中を真っ白にしながらその場にたたずむことしかできなかった。  結野と間宮さんが部室を立ち去ったあと、骨抜き状態から回復した石動先輩にそれまでの経緯を聞いた。  どうやら、先輩も俺と同じように間宮さんに呼び出されたらしい。嵐子とケンカして家を飛び出した、嵐子の重大な秘密を打ち明けるから部室で話をしたいと言われて。俺より三十分ほど早く部室に来た先輩は、そこで待ち伏せしていた間宮さんに不意を突かれ、彼女の超絶マッサージをくらってしまったのだという。  三十分間みっちりと体中をまんべんなくしつこいほど念入りにマッサージされてしまった石動先輩は、満足に体を起こすことができないほど骨抜き状態にされてしまった。そのあと間宮さんは先輩の服を剥ぎ取ってから布団に寝かし、邪悪な顔をしながら部室を出て行ったのだという。それから数分後、俺が部室に姿を現した。そして下着姿の先輩といっしょにいるところを結野に見られ、間宮さんの計画は完璧に遂行されてしまった。 『間宮の奴、このままだと勝負に勝っても嵐子を転校させることはできないってわかっちゃったから、あんなふざけた計画を練ったのよ。あたしとあんたを利用して。あ、ああ、あたしを下着姿にひん剥いて……』  普通に喋れるくらいまで回復した先輩は、鬼のような怒気を放ちながらそうつぶやいていた。間宮さんは結野の気持ちを転校のほうに傾かせるために、今回の姑息な計画を練ったのだという。  だが二つ疑問があった。どうして俺と石動先輩の逢瀬の瞬間を見せることが、結野の気持ちを転校に傾かせる要因になるのか。どうして間宮さんはそういうふうに考えたのか。それを先輩に尋ねてみると、先輩は心の底から呆れたような顔をして、『この変態はどうしてそんなに鈍感なのかしら。呆れたブタ脳だわ』とかつぶやいていた。俺は首をかしげるしかなかった。  そういう細かいところに疑問は残るのだが、一つだけ確実にわかっているのは、これは非常にまずい状態だということ。部室を去る間際に結野が見せた絶望的な表情。俺はあの姿を見たとき、本能的にやばいと感じた。結野の気持ちが間宮さん寄りになっていくのを悟ってしまった。  つまり、結果的に間宮さんの陰謀は大成功となってしまったのである。  先輩は去り際に言っていた。これで、もしも明日の五日目、間宮さんとの最後の勝負に自分たちが負けてしまったら、結野は本当に転校してしまうかもしれない、と。いまの結野に、間宮さんの説得に逆らうだけの気力はないだろうから。いや、もしかすると、結野自身が転校を望んでしまうという可能性も…… 「くそ……」  俺はベッドに横になりながら、頭をかきむしった。——校門の前で先輩と別れ、自宅に戻ってからすでに三十分以上経つ。俺はずっとベッドの上で悶々と考え込んでいた。  間宮さんが俺を部室に呼び出したとき、おかしいと思うべきだったんだ。なんでわざわざ電車に乗らなきゃならないほど遠くにある桜守高校まで呼び出したのか。俺の家から結野の家までは徒歩十分ほどの距離、家を飛び出したとはいえ直前までそこに滞在していた間宮さんが待ち合わせの場所に部室を選ぶのはあまりに不自然すぎる。結野の秘密うんぬんが頭の大半を占めていて、そういったところに疑問を挟む余裕がなかったのだ。  それにしても 「ほんと汚ねえな、間宮さん……」  俺や石動先輩が結野を心配する気持ちを利用して今回の罠を仕掛けた間宮さん。それはあまりにも卑劣すぎるのではないか。間宮さんが結野を大切に思う気持ちはわかる。結野のことを思って女子校に転校させようと思った気持ちも理解できる。でも、これはやりすぎだ。フェアじゃない。  俺は奥の部屋の前で立ちつくす結野の姿を、その哀しげな表情を脳裏に思い浮かべる。  それだけで胸に針で刺されたような痛みが走った。 「…………」  とにかく、明日だ。そう石動先輩も言っていた。  明日は勝負最終日。結野が考えた改善方法を実践する日だった。そのとき部室に姿を現した結野に、今日のことは間宮さんの陰謀だったのだと説明し、俺と先輩が付き合ってるなんていう誤解は解く。絶対に解く。まずはそれからだ。 「ちゃんと事情を話せば、結野だってきっとわかってくれるよな……よしっ!」  気合いを入れるように自分の両頬を叩く。  まだ早いけど明日に備えてもう寝ようかな——そう思ったときだった。 「太郎ちゃああ————んっ!」 「ぬおっ!?」  いつものように突然ドアが開き、いつものように姉貴が部屋に入ってきた。  姉貴はピンク色のパジャマ姿、頭からバスタオルをかぶっているという格好で、ベッドの上にどさっと乗っかってくる。 「た、太郎ちゃん! いたいよぉ! いたいんだよぉ!」 「な、なにが痛いんだよ?」  姉貴は上半身を起こした俺に体を寄せ、えぐえぐ涙目になりながら、 「お風呂上がりにね、アイスキャンデーを食べようと思ったらね、舌がアイスの表面に張り付いちゃって……すぐに剥がれたんだけど、でもね、すっごく痛くて……」 「ああ、そう……」 「ねえ太郎ちゃん! お姉ちゃんの舌、ひどいことになってないかな!? 血とか出ちゃったりしてないかな!?」  大げさに言いながら、姉貴はれろっとピンク色の舌を出して俺に見せてくる。なぜか両目をつむり、顔を赤くしている。  俺はやれやれとつぶやいてから、姉貴の舌をじっと観察する。 「べつになんもなってねえよ。大丈夫だと思うけど」 「……じゃあ、キスして」 「なに言ってんの!? 脈絡のないセリフを吐くんじゃねえ!」 「えへへ、冗談だよー」 「まったく……つーか姉貴、髪の毛が濡れたままだぞ」 「だってお風呂上がりだもん。あ、そうだ」  姉貴はにゃはっと笑いながら、 「ねえねえ太郎ちゃん、お姉ちゃんの髪を拭き拭きしてほしいな」 「はあ? なんで俺がそんなこと……全力でお断りします」 「じゃあ、代わりにキスして」 「だからなんでだよ! アホか!」 「お願い、太郎ちゃん! こんなに髪が濡れたまんまじゃあ、お姉ちゃんは自律神経に失調をきたしたあげくやがては寝たきりになっちゃうよう!」 「……なるわけねえだろ」  ぎゃーぎゃーうるさい姉貴に根負けした俺は、姉貴の頭に乗っかっているバスタオルを両手で掴み、わしゃわしゃと姉貴の髪の毛を拭いてやった。ほんと、世話の焼けるお姉ちゃんです。  バスタオルに頭を包まれている姉貴は、にぱっと幸せそうにほほ笑みながら、 「えへへ……気持ちいいよー」 「やれやれ。……ほい完了。もういいだろ」 「ありがと、太郎ちゃん! お礼に添い寝してあげるねっ!」 「いりません」 「遠慮しなくていいよー。お風呂上がりでしっとりしたお姉ちゃんは普段より色気が二割増しだし、ブラジャーもしてないからおっぱいもふにふにだよ? というかぽよんぽよんだよ?触ってみる?」  呆れたことをほざく姉貴に部屋を出て行くよう言おうとしたとき。 「太郎さぁあ————んっ!」 「うおっ!?」  母さんが泣きながら部屋に飛び込んできた。ベッドに乗っかると、 「た、太郎さん、さっき夜食にカップラーメンを食べようとしたら、熱湯が指にかかっちゃったんですっ! すぐに冷やさないと大変ですから、太郎さんの耳たぶを貸してください! えいっ!」  言いながら、母さんは両手で俺の耳たぶを触ってくる。 「ね、熱湯がかかったって……じゃあまずは水で冷やせよ! わざわざ俺の耳たぶを触りに来るんじゃねえ! つーか自分の耳たぶで充分だろうが!」 「太郎さんの耳たぶがいいんです! ああ、火傷が瞬時に治っていく……」  いや、俺の耳たぶにそんなすごい修復機能は備わってませんから。  母さんは満足そうな顔で俺の耳たぶから手を離すと、 「ありがとうございました、太郎さん。結婚してください」 「……なんで急にプロポーズするんだよ」  俺はため息をつく。 「こんな時間にカッブラーメン……ふうん……」  言って、ふひーと息を吐く姉貴。半笑いでぼそっと、 「そんなんだから、太るんだよ」 「な、なんですと!?」  母さんはベッドの上で立ち上がり、ショックに顔を歪める。 「な、なな、なにを言うんですか静香さん! 私はまったく太ってないですよ!」 「そうだね、メタボリックお母さんはまったく太ってないよね」 「メ、メタボリックお母さん!? なんですかそれは!? 根拠のない誹諦中傷はやめてくださいっ!」 「悲しいかな、気づいてないのは本人だけなんだよね……」 「そ、そういう静香さんこそ、最近二の腕のしまりがなくなってるような気がしますけど、大丈夫なんですか? ガリガリくんの食べ過ぎじゃないんですか?」 「ギクギクギクーっ! な、なに言ってるんだよ、大丈夫に決まってるよ! 世界トップクラスに大丈夫だよ!」 「そうですかあ……?」 「そ、その目はなに!? やめてっ! 二の腕を凝視するのはやめてっ!」  姉貴と母さんは俺の目の前で醜い言い争いを続けている。アホかこの人たちは……  二人はなんだかすごく深刻そうな様子で俺ににじり寄ると、 「た、太郎ちゃん! わたし太ってないよね!? 大丈夫だよね!?」 「た、太郎さん! 私はメタボリックじゃないですよね!? 太郎さん好みのプロポーションを維持してますよね!?」 「ええいうるさい! そんなこと知るか!」 「太郎ちゃんよく見て! わたしの二の腕をよく見て! そしてとても細い腕だねって言ってよおおおおおお————っっ!」 「太郎さんよく見てください! 私のおなかをよく見てくださいっ! そして母さんは逆にもうちょっと太ったほうがいいよとか言ってくださいいいいい————っっ!」 「だあああああああああああ————っっ! 二人とも暑苦しいから離れろっ! つーかさっさと俺の部屋から出ていけえええええ——————っっ!」  むぎゅむぎゅと体を押しつけてくる二人に向かって、俺は力いっぱい怒鳴った。  夜が明けて——今日は運命の五日目。  時刻は正午過ぎ。部室には俺と石動先輩、みちる先生と辰吉がいた。 「おっそいわね二人とも……」  イライラした様子で先輩がつぶやく。爪先が床を連打している。  昨日のうちに今日の集合時間は正午と決めていた。それをもう十分ほど過ぎているが、結野と間宮さんはまだ部室に来ていなかった。  五日目。結野が考えた男性恐怖症を治す方法。それは——愛の力による治療。  石動先輩は以前、愛の力で俺のドMを治すんだと言って、俺と擬似的な恋人関係を結んだことがある。二人のあいだで深い愛をはぐくみ、その愛の奇跡によってドM体質を治そうという意味不明な治療方法だった。その試みは当然のように失敗に終わったのだが、どういうわけか結野はその方法を自分に適用しようとしているらしい。  そして、その愛をはぐくむ相手として選ばれたのが、どうやら俺のようだった。  照れくさいからタローには直前まで話さないでほしい——そう結野は言ったのだという。結野からこっそり愛の力による治療を提案された石動先輩たちは、俺には秘密にしたまま愛の力プロジェクトを進めていたとのこと。 「みちる姉。時間がもったいないから、脚本のおさらいでもしよっか?」 「ああ、そうだな」  二人の手にはホッチキスで束ねられた紙が握られている。どうやらそれは愛の力プロジェクトの脚本であるらしい。前回と同様、その脚本を考えたのはみちる先生のようだった。……なんか、すごい不安です。  みちる先生は脚本を眺めながら言う。 「今回は前回よりもさらにドラマチックな脚本に仕上がっている。美緒、槍投げの訓練はちゃんとしてきたか?」 「え? ええっと……あんまりしてないけど、まあ大丈夫だと思うわ。たぶん」 「そうか。最後のクライマックス、美緒がロンギヌスの槍を投擲するシーンはかなり重要だからな。失敗はゆるされないぞ」 「わかってるわ。恋人の嵐子に向かって投げられた槍を『……』が身を投げ出してふせぐのよね」 「そうだ。槍が心臓に刺さり倒れた『……』を、嵐子が泣きながら抱き上げる。完全に絶命したと思われた『……』だったが、なぜか無事だった。それは、直前に嵐子からプレゼントされたペンダントのおかげ。槍はペンダントに防がれ、『……』の心臓まで届かなかったのだ。二人は愛の奇跡に感涙し、そしてうまい具合に嵐子の男性恐怖症は治ってしまうというわけだ」 「うんうん、感動的なストーリーだわ。ハリウッドも狙えるわね。でも、二十メートルも離れた場所から直径三センチのペンダントを狙って槍を投げるなんてできるのかしら? もしちょっとでも槍が外れたら『……』は——」 「美緒。ネガティブシンキングはいけないぞ、こういうときは楽観的に構えているのが一番なんだ」 「そうよね! なんとかなるよね!」  というような会話を先輩とみちる先生はしている。あ、あれ? おかしいな、こんなに近くで聞いてるのに二人の会話のある一部分——おそらく何者かの名前が呼ばれてるであろう部分——がまったく聞こえない。というか、本当はちゃんと聞こえてるんだけど、脳みそがそれを認識するのを拒否しているというか…… 「太郎……死ぬなよ」  ちょっとだけ瞳を潤ませた辰吉が俺の肩に優しく手を置く。死ぬなってどういうことだろうまったくこれっぽっちも意味がわからないですいやほんとマジであははははは。  そのとき、石動先輩の携帯電話が着信の音を鳴らした。 「……嵐子からだわ」  言って、先輩は携帯電話を耳に当てる。 「嵐子、もう時間だけどいまどこに——え? 間宮なの? 嵐子の携帯電話を借りて電話してる? なんのために……はあ!? ちょ、ちょっと、それはどういう……」  先輩は携帯電話に向かって大声をぶつけていた。相手はどうやら間宮さんのようだが、いったいどうしたのだろうか。 「ぶ、部室には来ないってどういうことよ!? 今日は勝負の最終日……え? い、いまから嵐子と女子校の下見に行くから空港に向かってる? ちょ——そ、それは……」  え……? 女子校の下見って……  気がつくと——俺は先輩から携帯電話を引ったくっていた。先輩が「あ、こら!」と携帯を取り返そうとするが、それを無視し、 「女子校の下見に行くって……どういうことだよ?」 『あら? あなた砂戸くん? どういうことって、言葉通りの意味よ』 「勝負は……勝負はどうなるんだよ。今日はラストの五日目——」 『もう勝負する必要はなくなったのよ』 「……なんだと?」 『嵐子が決心してくれたの。わたしの女子校に転校することを。嵐子の決意はすごく固いみたいで、勝負の結果には関係なく転校したいって言うから、わたしも帰る日にちを日早めていっしょに女子校や寮の下見を——』 「ふ、ふざけんじゃねえっ!」  腹の底から怒鳴り声を張り上げる。間宮さんの言葉が一瞬止まる。 「おまえ——おまえ、なに勝手なこと言ってやがる……」  あまりの怒りに声が震える。 『……嵐子が自分で決めたことよ。わたしが強要したわけじゃないわ』 「そ、それはおまえが汚いやり方で——もういい。とにかく、結野に換われ。結野と話をさせろ」  言うと、間宮さんは少しだけ躊躇ったあと、 『……いいわ。嵐子、砂戸くんが話したいって』  そして—— 『タロー……』  その消え入りそうな声は、間違いなく結野のものだった。 「ゆ、結野!」  俺は必死な口調で、 「ど、どういうことだよ!? 女子校の下見に行くって、そんな……まだ勝負の決着もついてないのに……」 『ごめん……ごめんね……』  電話の向こうで——結野はひっくひっくとしゃくり上げていた。  結野……泣いてる、のか……? 『でも……わたし、タローと美緒さんの顔、もう見れないから……悲しくて見れないから……だから……』 「そ、それは間宮さんの陰謀——」 『わたし、タローといっしょにいれて楽しかった。短いあいだだったけど、すごく楽しかったよ。本当に……』 「結野……」 『いままでありがとう。——さようなら』  その言葉を最後に、電話は切れた。 「結野! お、おいっ! ……くそっ!」  電話をかけ直してみるが、電源が切られてしまったらしく、携帯はつながらない。  石動先輩が俺の持っていた携帯電話を素早く取り戻した。俺と同じように何度か電話をかけ直し、それが無駄だと悟るとため息をつき、 「……まずいわね」  と、親指の爪を噛みながらつぶやく。 「下見とか言ってたけど……あの卑怯な魔女のことだから、このまま嵐子をこっちに一度も戻さずに転校を決めて寮に放り込んだりするかもしれないわ。そんなことになったら、もうあたしたちには手出しできないかも……」  それは、充分考えられることだった。 「まさか、五日目の勝負をドタキャンするとは思わなかったわ。これじゃあ、嵐子の誤解を解くことができない。……本当に汚い女狐ねあいつは。こ、殺したい」  先輩は携帯電話を握りつぶしそうな勢いでつぶやいている。 「美緒。話がまったく見えないのだが、なにがあったんだ?」  と、みちる先生。辰吉も怪訝な顔をしている。二人にはまだ昨夜のことを告げていなかったのだ。石動先輩が昨夜からの事情を二人に説明する。  俺は、ぼんやりと虚空を見つめていた。 『いままでありがとう。——さようなら』  それは、決定的な別れの言葉だった。その別れの言葉が、俺の頭の中で何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し鳴り響いていた。 「…………………………けんな」  沸騰した感情が喉から漏れる。 「……………………ふざけんな」  爪が皮膚を破きそうなほど、強く、拳を握りしめる。全身の震えを抑えることができない。ふざけんな。ふざけんなよ。  火のついた肉体が衝動的に動く。俺は床を蹴り、部室を飛び出した。  台風の接近により、外には強い風が吹き荒れていた。突風の束を引き裂くようにして、俺は全身を前に進める。校門を抜け、舗装された道路を力いっぱい蹴り、全速力で走る。悲鳴のような音を立てながら荒れ狂う暴風。瞼《まぶた》を開けることさえ困難な向かい風の中を、無謀なほどの全力で駆け抜ける。  ふざけんな。ふざけんなふざけんなふざけんな。俺は呪詛《じゅそ》のように繰り返していた。結野は泣いてたじゃねえか。悲しそうに泣いてたじゃねえかよ。結野を守るために、結野のためにやってることで、なんであいつがあんな悲しい思いをしなくちゃいけないんだ。なんであいつが傷つかなくちゃいけないんだ。幼い頃からの友人だか親友だか知らないが、ふざけんじゃねえ。  飛翔するようにコンクリートを蹴る、蹴る蹴る蹴る。透き通るようなはっきりした怒りが俺の脳髄を燃やしていた。容赦なく行く手を遮る暴風に、そしてあのクソったれな魔女に文句を吐き出しながら、俺は魂で疾走する。  女子校に下見に行くために空港に向かっていると言っていた。空港までのルートは、俺の自宅付近にある駅から電車に乗り桜守駅のさらに数駅先で降車し、そこからバスで十五分ほど。桜守高校から直線で進めば、空港まではそれほど遠くはない。少なくとも、いまから電車やバスを使って追いかけるよりは走ったほうが早く空港に着くはずだった。  が、遠くはないとはいっても五キロ以上はある。この暴風の中を空港まで走って向かうなんて、無茶で無謀な話だった。それに、もしも間宮さんが電話をかけてきたのが空港のすぐそばからだったなら、今頃二人は空の上という可能性もある。俺の疾走は無意味でアホな行為でしかないという可能性もある。  それでも、じっとしてなんかいられなかったのだ。結野の涙が、さようならという言葉が、俺の肉体にとにかく動けと命令していた。  灰色にくすんだ街の風景が高速で後ろに流れていく。  転びかけながら道路を左折、体勢を立て直し、前だけを見て走る。  土のぬかるんだ公園を通り抜け、水たまりを跳ね上げながら、体を前に進める。 「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ……」  だが——  悲しいかな、肉体の力というものは有限である。  狂ったように暴れる心臓、もう限界だと悲鳴を上げる肺、千切れそうな痛みを放つ全身の筋肉、ペース配分をまったく無視した衝動だけの走りは、次第に当初の勢いをなくしていた。当然だ。五キロ以上の距離を全速力で走れる人類などいるはずがない。そして、悪魔のような向かい風が、俺の体を押し返してくる。いろんなものが吹き飛ばされそうになる。それでも俺は走った。無様に息を荒げながら、走った。 「くそ……ちくしょう……」  やばい。  意識が朦朧としてきた。  両足が鉛のように重い。  肺も心臓もなにもかも限界だ。  意志に反して、全身が停止しようとしている。  もし、いまここで立ち止まってしまえば——俺はもう二度と走れないだろう。  もう二度と、追いつくことはできない。  もう二度と…… 「結野……」  泣きそうな声でつぶやく。  そのとき、だった—— 「——げふううううううっ!?」  俺の背中を、強烈な衝撃が襲った。  思わず俺の病気が目覚めてしまいそうになる、そんな一撃。 「え……?」  俺の背中に力いっぱいの平手を放ったその小柄な人物は、俺の体を追い越して前に出ると——顔を振り向かせ、二重《ふたえ》の瞳にまっすぐな光を灯しながら、にかっと力強い笑みを見せた。 「のろのろ走ってんじゃないわよ——ブタロウ!」  亜麻色の長い髪を乱し。  小さな体を強風に晒し。  息を荒げながらそこにいたのは—— 「い——石動先輩っ!?」  どうして先輩が……  まさか、部室を出た俺を追いかけてきたのか?  俺がどこに向かうのか悟って、それで……  いや、それにしても信じられない。俺はここまで人間の限界を超えちゃったんじゃないかというほどの速度で走ってきたのだ。そんな俺に追いつき、しかもまだ余力がある感じで……こ、この人は超人すぎる。  石動先輩は俺の体の前を走る。俺を向かい風から守るように。激しい風に翻弄されるように舞う長い髪、額には玉のような汗、荒い呼吸を繰り返しながらそれでも頼もしい笑顔を浮かべ、俺を鼓舞するような明るい声で—— 「さあ、嵐子を取り戻しに行くわよ! あたしに着いてきなさい!」  俺は苦笑のような笑みを返しながら、小さくうなずいた。 「——はい」  向かい風を真正面から受け止めながち、先輩は疾走する。  不思議なことに、なんだか体の奥から力が沸き上がってきた。まだまだ走れそうな気がしてきた。そして、意味不明なほどに場違いで申し訳ないのだが、俺はこのとき、先輩は世界一綺麗な女の子だなとか、そんなことを思ったりしていた。  暴風を切り裂きながら走る先輩。そのあとを必死に着いていく俺。  やがて—— 「み、見えたわっ!」 「え……?」 「空港よっ!」  朦朧としながら顔を上げると、巨大な空港の姿があった。  ボロボロな格好の俺と先輩は、転がるようにして空港ターミナルビルのロビーに入る。  俺はきょろきょろロビー内に視線を這わせる。近くにいる乗客たちが怪訝な視線を俺たちに向けていた。先輩は慌てた様子で、 「ね、ねえ! 嵐子たちはどの便に乗るの!?」 「え……?」  俺は少しうろたえながら、 「そ、そんなの知らないですけど……」 「…………」  石動先輩は一瞬ぽかんとしてから——  左手を伸ばし、俺の首をがしっと掴んだ。おおう、そんな強く握られると……  先輩は鋭い眼光で俺を見上げながら、 「あ、あんた、嵐子たちがどの飛行機に乗るのか聞いたんじゃないの? どの時間の便に乗るか聞いて、いまから走って空港に向かえば間に合うかもしれないって思ったから、あんな必死こいて走ってたんじゃないの……?」 「い、いや……じつはそういうわけではなくて……」 「じゃあ、どうして……」 「そ、それは、ええっと、なんとゆーか、はち切れんばかりの衝動が俺の体を動かした結果というか……その……」 「よし、死のうか」 「えええ!? ちょ、ちょっと待ってください! お願いだから拳を振り上げないで!」  そのとき、ロビーにいる乗客からこんな会話が聞こえてきた。 「え? 台風の影響で全便欠航?」 「ああ、ほんの少し前に決まったらしい。台風の進路次第では飛ぶかもしれないという話で、微妙なラインだったが、結局は全便欠航になったみたいだ。やれやれ、まいったな……」  俺と先輩は目を見合わせた。飛行機が全便欠航? じゃあ、結野たちはまだ……  そのとき——俺の瞳が、ロビーに入ってくる二人の少女の姿を捉えた。  あ、あれは…… 「ゆ——結野っ!?」  問違いない。いまロビーに入ってきたのは結野だ。隣には間宮さんもいる。  俺と先輩に気づいた二人は、ぽかんとした表情を浮かべて俺たちを見ていた。  えっと……つまりこういうことか? 部室から走ってきた俺と先輩は、結野たちよりも先に空港に着いてしまった—— 「ゆ、結野……」  慌てて駆け寄ろうとすると、結野は、 「…………」  泣き出す寸前のようにくしゃっと顔を歪め、くるりと俺たちに背を向けた。ロビーを出て、ターミナルビルの外に飛び出していく。 「お、おい結野っ!待ってくれよ!」 「嵐子っ!」  俺と石動先輩が慌てて結野を追いかけ—— 「っ!?」  俺たちの進路を塞ぐように、なにか大きなものが飛んできた。たたらを踏むようにその場で停止する。飛んできたのは大きな旅行バッグ。  それを投げたのは、言うまでもなく…… 「嵐子は追わせないわ」  間宮さんだった。 「まさか、こんなところまで追っかけてくるとはね……」  と、間宮さんは無表情で言う。 「でも……」  ふん、といつもの不敵な笑み。 「あなたたちはここまでよ。諦めておうちに帰りなさい」 「間宮さん……」  俺は怒りを含んだ声で告げる。 「結野は転校させない。絶対に」 「ブタロウ! いまはこんな奴どうでもいいから、嵐子を追わないと」  確かにその通りだ——だが、間宮さんが俺たちの前に立ちはだかる。 「ほほう……やるってーの?」  石動先輩が好戦的な笑みを浮かべる。 「言っとくけど、あたしは超強いわよ? それに、今日は強靱な盾もいます」 「た、盾って俺のことですか……?」 「あんたのマッサージは驚異的だけど、二人がかりなら間違いなく勝てるわ。半殺しの目に遭いたくなかったら、おとなしくそこをどきなさい」 「確かに……二対一ってのは分が悪いわね」  言って——  間宮さんは俺たちに向かって駆けだした。  不意を突かれた俺たちは、一瞬動きが停止してしまう。  狙ったのは石動先輩。間宮さんはドロップキックを放つような感じで先輩の首に飛びつく。両足を先輩の首に絡めると、自分の上半身を蛇のように先輩の体に巻き付けた。 「——えっ!?」  先輩が戦慄の表情を浮かべる。先輩の体に自分の体を巻き付けた間宮さんは、まるで竜巻のようにぐるぐる回転しながら先輩の上半身を下っていき、そして先輩のウエストを両足でがっちり挟みながら脇の下をくぐるようにして背後に移動し、先輩の耳元でなにか囁いたあと——ブリッジするように両手を地面につき、そのまま両足の力と腰の回転で先輩の体を天高く放り投げた。えええええっ!?  スーパーアクロバティックな妙技。おおおお、とロビーにいた乗客たちから感嘆の声が漏れる。なんかのパフォーマンスとでも思っているのかもしれない。  空高く舞い上がった先輩の体が、どがあああああん! と背中から床に激突する。  一連の動作はほんの二、三秒のうちに行われた。俺が我に返ったのは、先輩がぐてんと床に倒れたあとだった。 「せ、先輩っ!?」  やっと硬直がとけた俺は慌てて先輩に駆け寄る。  仰向けで倒れる先輩は—— 「えへ……えへへ……」  とても幸せそうな表情をしながら、ぴくぴく全身を痙攣させていた。こ、これは……  ゆっくりと立ち上がった間宮さんは、ぜーぜーと肩で息をしながら、 「間宮流マッサージ術……奥義のさらに上に位置する四神《しじん》と言われる超奥義の一つ、『青龍』のマッサージ……これを受けた相手は、あまりの気持ちよさに三日三晩廃人になるという……」 「…………」  えっと……なんですかそれは? つーかマッサージで廃人になっちゃダメだろ。 「相手の体に龍のごとき動きで巻き付きながら、全身の百八のツボを指圧し、筋肉の凝りをほぐし、歪んだ骨格を矯正し、リンパの流れをよくし、そして耳元で『あなたは無意味な人間なんかじゃない、生まれてきてくれてありがとう』と囁くことで精神的な歪みまで癒すという超奥義……自慢するわけじゃないけど、一族の中でこの技が使えるのはわたしだけよ……」 「…………」 「これで……一対一になったわね……」  間宮さんは凄絶な笑みで俺を見つめる。やばい、勝てる気がしない……  俺があわわわとうろたえていると、 「……あ、甘いわね」 「な——っ!?」  驚愕の表情を浮かべる間宮さん。その視線の先には、ふらふらと並ち上がる石動先輩の姿があった。おお、先輩ご無事でしたか。 「ば、馬鹿な、どうして……」 「ふふふ……ツ、ツメが甘かったのよ……」  先輩は前後左右にふらつきながら、 「最後に耳元で囁いた言葉……あれが『あなたは無意味な人間なんかじゃない、生まれてきてくれてありがとう』ではなく『貧乳だって個性のうち。あなたの胸はすっごくかわいいわよ』だったら、いまごろあたしは極楽浄土の夢の中だったわ……」 「くっ……そ、そっちだったか……わたしも修行が足りないわね……」  え、問題はそこなの?  間宮さんは取り繕うような笑みを浮かべたあと、 「ふ、ふん。でも、不完全だったとはいえ『青龍』のマッサージをくらったんだから、あなたの体は気持ちよすぎてふらふらなはずよ」 「確かにその通りだわ……全身に力が入らない。でも、それはあんたも同じじゃないの?」 「え?」 「尋常じゃない量の汗と、激しく乱れた呼吸……あんたも五体満足には見えないけど」 「……よくぞ見破ったわね。『四神』は人間の限界を超えた動きを必要とするマッサージ……そのぶん、肉体にかかる負担は想像を絶する。全身が悲鳴を上げているわ」  この人たちはいったいなにを言っているのだろう。 「ブタロウ!」 「は、はい?」 「ここはあたしに任せて、あんたは嵐子を追いなさいっ!」 「え……あ、はいっ!」  俺はターミナルビルの入り口に向かって駆けだした。間宮さんは慌てて、 「あ、こら、ちょっと——」 「おおっと! あんたの相手はこのあたしよっ!」 「くっ——」  先輩が間宮さんを食い止めてくれているあいだに、俺はターミナルビルから出た。  吹きすさぶ風に思わず目をつぶる。風はさらに強まっているような気がした。強風に飛ばされたプラスティック製のゴミ箱が俺のすぐ目の前を転がり、中に入っていたペットボトルや空き缶を辺りにまき散らす。 「結野……どこに行ったんだよ」  ターミナルビルの外は道路と駐車場ばかりの起伏の乏しい風景が広がっている。障害物があまりないおかげで、かなり遠方まで見通すことができた。俺は必死に目をこらす。  すると、遠くに女性の後ろ姿を見つけた。  あの運動神経ナッシングな感じの走り方は——間違いなく結野だ。  俺はその背中に向かって駆けだした。  酷使した足の筋肉が悲鳴を上げ、ビクビクと痙攣をおこしている。それでも俺は走った。次第に大きくなっていく結野の背中。俺は風音に負けないような大声で、叫んだ。 「結野っ!」  ハッと後ろを振り返った結野は、走る速度を上げ俺から遠ざかっていく。……名前を呼んだのは失敗だったかもしれない。  両足はもうボロボロだったが、それでもまだ結野よりかは速く走れた。二人の距離は次第に縮まり、十メートルを切ったところで——  風に飛ばされてきた空き瓶が結野の目の前の地面にぶつかり、粉々に砕けた。それに驚いた結野が足を止める。 「ゆ、結野! 大丈夫か!? 怪我は……」 「こ、来ないでっ!」  逃げることを諦めた結野が俺のほうに向き直り、大声を張り上げる。 「…………」  俺はその場で停止した。  いま俺たちがいるのは、幅の広い橋の上。下方では台風によって水かさの増した河川がうねるように流れている。結野は橋の欄干に体を寄せ、怯えたような目で俺のほうを見つめていた。 「ゆ、結野……」 「…………」  風が高い音を立てながら俺たちのあいだを通過していく。  俺は懇願するような声で、 「結野、なんでだよ。なんで急に転校するなんて……」  結野はくしゃっと顔を歪めて、 「だって……タローと美緒さんの顔を見るのがつらかったんだもん。すごくつらかったんだもん。だから、由美の学校に転校してしまえば、二人の顔を見なくてすむと思って……」 「夜の部室で俺と石動先輩がいっしょにいたことが原因なのか? あれは違うんだよ! あれは間宮さんの汚い陰謀で——」 「ウソ! ウソよっ! そんなウソ、聞きたくないっ!」  いやいやと首を左右に振りながら、結野は両手で耳を塞いでしまう。ううう、なんでそんなに聞き分けがないんだよ。 「というか——仮に、仮にだぞ、俺と石動先輩が付き合ってるとして……」 「ほら、やっぱり付き合ってるんだっ!」 「だから違うって! 仮の話だっ! も、もしそうだとしても、なんでおまえが転校するとかいう話になるんだよ! なんで俺と先輩の顔を見るのがつらいとか言うんだよ!」 「それは——な、なんでわからないのよっ! バカ! 鈍感! 変態! アンポンタン!」 「アンポン……わ、わからねえよっ! まったくわからねえ! なんでおまえが転校したがるのか、まったく意味がわからねえ!」 「だ、だって……」  結野は重ねた両手を胸の前で握りしめ、少し身をかがめるような格好で、 「だって、だってだってだってだってだってだってだってだってだって——!」  両目をぎゅっとつぶり、瞼の縁から涙を流しながら、 「だって……だってだって、わ、わたしは……」  叫ぶような声で、 「わわ、わたしは——わたしは、タローのことが、す——」  そのとき——強い突風が吹いた。  俺は大きく目を見開く。突風に飛ばされてきた長方形の看板の残骸が、結野のほうにまっすぐ向かっていった。結野はそれに気づいていない。  反射的に体が動いた。  結野の肩を抱き、体を入れかえる。  飛ばされてきた看板が——俺の頭部にまっすぐ激突した。 「……ぐっ!」  激痛とともに脳が揺れる。体がバランスを崩し、そして—— 「え……?」  なぜか天地が逆さまに。  気がつくと——俺は橋から落ちてしまっていた。 「ええええええええええええええええ!?」  あたふたしてももはや手遅れ。水かさを増し荒れ狂う河川に俺は頭からダイブした。 「ご、ごほ……かはっ……」  やばい。これはマジでやばくてシャレにならない。強風に煽られた水面は狂ったように暴れながら俺の体を水底に引きずり込もうとする。顔を上げることさえままならない状態。メチャクチャに手足を動かすが、そんなことをしても無意味だ。落ち着け。落ち着くんだ俺。とりあえず岸は見えてるんだから、あそこまで泳ぎきれば—— 「——ひぎっ!?」  突然の痛みに俺の表情が引きつる。 「…………あ……」  ここまでの激走がたたったのか……  右足のふくらはぎが、つってしまいました。 「がぼ……っ! うえ……」  誰かに足を引っ張られたかのように水中に没する俺の体。やばい、やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいっ! これは本当にやばいっ! 重い水が全身に絡みつき、俺はもうパニック寸前になっていた。 「ご、こぼっ……あ、ば……」  水中で暴れる。 「……あ……があ、は——ばほ……っ!」  大量の汚水を飲んでしまい、俺は泣きながら咳き込む——暇も与えられず、またもや水中に引きずり込まれる。なにも見えない。なにも聞こえない。 「…………っ……」  もがく。  馬鹿みたいにもがく。  痛くて怖くて苦しくて、気が狂いそうで俺ってこのまま死ぬのかなとか思っちゃってなんだかすごく悲しくなってお願いだから誰かたすけてくださいたすけてくださいたすけてくださいたすけてたすけてたすけてたすけて—— 「え……?」  呆然と目を見開く。  暴れる水面の隙間に——それは見えた。  激しく揺れ動く視界に、濁った水を掻き上げる彼女の姿が映った。  小さな頭は浮上と沈没を繰り返し、華奢な体は荒れ狂う風と水面に翻弄されている。無様に手足を動かすその様は溺れているようにしか見えない。たぶん、いまの俺よりも危うくて切羽詰まった状態、だというのに、その瞳だけは、その大きな瞳だけは、強い意志の光を宿しながらしっかりと前を向いている。まっすぐ俺に向けられている。 「…………」  あいつ……  あいつ、なにしてんだよ……  運動神経ゼロのくせに……なにしてんだよ……  俺をたすけるために、あの橋から川に飛び込んだのか? なに考えてやがる。おまえに溺れた人間がたすけられるわけないじゃねえか。というかおまえが溺れてるじゃねえか。もしかして泳げないんじゃないのか? ほら、また沈んだ。ああ、そんなに大口開けてると汚い水を飲んじまうぞ。え、大口を開けてるのは、なにかを叫んでるからか? ……なるほど、俺の名前を呼んでるんだな。おまえは自分がそんな状態だっていうのに、まだ俺のことをたすけようとか思ってるんだな。無理に決まってるだろうが。ほんと、頭おかしいんじゃねえのか、おまえ。 「ううう……」  唇を千切れそうなほど噛みしめる。 「ううう……ぐぐぐ……!」  足がつったのは勘違いだ。そうに決まってる。  俺は両足で水中をキックし、両腕を力強く振り上げ、渾身の力で水面を掻き分ける。 「結野っ!」  叫んだ。 「結野っ!」  あのバカの名前を叫んだ。  声に反応した結野が視線をこちらに向ける。  目が合うと——結野はなぜかほほ笑みを浮かべた。  震えながら伸ばされる白い右手。そして。  その右手が力を失い、水面に倒れる。 「——!?」  もうとっくに限界だったのだろう、結野の全身から力が消えた。 「ゆ、結野っ!」  水中に沈んでいく結野の体。  俺は——それをすんでのところでキャッチした。 「結野! おいっ!」  結野はどうやら気を失っているようだった。 「くそ……」  結野を左腕に抱きかかえたまま、岸の方向を睨むように見つめる。——遠い。  無理かもしれない。一瞬、そんなことを思った。 「ぐ……っ!」  暴風と荒れる水流が、俺と結野の体を引き裂こうとする。ふざけんじゃねえよ。こいつは絶対に渡さねえぞ。絶対に。  俺は、恐怖と衰弱に震える右手を、一度だけ強く握りしめてから——  その手をほどき、大きく右腕をしならせた。 「はっ……はっ……」  岸を目指す。結野を抱えたまま、懸命に体を前に進める。 「こぼっ——かは……っ! はっ、はっ……」  結野……結野……  白濁した意識が、その名前だけを繰り返す。  結野……結野……結野……  全身の感覚がなくなる。五感が閉ざされていく。それでも俺は前に進んだ。左腕の熱源を支えに、真っ暗の中を突き進んだ。  突き進んだ。突き進んだ。突き…… 「……! …………!」  ——なんだろう。 「……! …………! ………………!」  ——遠くで声が聞こえる。  いや、聞こえたというわけではない。そんな気配を感じただけだった、世界は恐ろしいほどの無音に包まれ、体の感覚もほとんどなかった  瞼がかろうじて動いた。少しだけ開いた隙間から、外の世界を覗く。  俺の顔の前で力いっぱい叫んでいる少女。  ぽろぽろと泣きながら、きっと俺の名前を呼んでいるであろう少女。  結野……  そっか……おまえ、無事だったんだな……  よかっ、た……  安心して瞼を閉じようとして——寸前で思いとどまる。  なんというか、いま瞼を閉じるのはやばい気がする。  いま瞼を閉じてしまったら、もう二度と目が覚めないのでは……そんな気がした。  つーか俺、ちゃんと呼吸してるんだろうか?  わからない。すべてがふわふわぼんやりしていて、なにがなんだかわからない。  でも、まあ……結野が無事だったので、よしとするか……  そう思った瞬間、瞼が下りて—— 「………………タロー!」  圧倒的な無音の中で、その声だけが耳に届いた。  そして——俺の体に息吹が吹き込まれる。  なんだか力が注ぎ込まれたような気がして、俺はもう少しだけ大きく瞼を開けてみた。 「…………」  結野の顔が、俺の顔にくっついていた。  少しずつ戻ってくる体の感覚。結野は右手で俺の鼻をつまみ、そして……ええっと、なんというか……く、唇を、その……つまり……  とろけそうなほどやわらかい結野の唇の感触を、俺は自分の唇で感じていた。そこから注ぎ込まれる熱い息吹。それを何度も何度も繰り返されるうちに、四肢に少しだけ力が戻ってきて—— 「……かはっ! ごほぅ!」  咳き込みながら、上半身を起こす。 「タ……タロー!」  結野は叫ぶように言って、 「タロー……よかった……」  がばっと俺の胸に飛び込んできた。 「ゆ、結野……」  ずぶ濡れだけど、あたたかい。そんな結野の重みを感じながら、思う。俺たちは……どうなったんだ? まさかここは天国じゃないよな?  すぐ横には荒れ狂う河川。どうやら俺たちは岸にいるらしい。 「結野、俺は……」 「ありがとう、タロー」 「え?」 「溺れて気を失ったわたしを、タローが抱えて岸まで運んでくれたんだよ……」 「……そ、そうなのか?」  まったく覚えていない。岸を目指したところまでは覚えているが、そこから先は意識が朦朧としてしまって記憶には残ってなかった。でも、本当に結野の言うとおりなら、俺は自分の肉体を褒めてやりたい。 「わたしはすぐに気がついたんだけど、でも、タローは目が覚めなくて……なんだか息もしてなかったから、だからわたし……わたし……」 「…………」 「…………」  なんとなく、二人とも口をつぐんでしまう。見なくても結野の顔が真っ赤なのはわかった。慌てたような感じで結野は俺の体から離れる。あたふたと目を逸らす。 「…………」 「…………」  あれはただの人工呼吸。ただの人命救助。  わかっている、わかっているのだが……ええっと……  と——  俺はそこでようやく、自分の周りに人の気配があることに気づいた。  顔を上げる。 「え……?」  石動先輩がいた。間宮さんがいた。みちる先生がいた。辰吉がいた。 「……え……あ……」  日を大きく見開く。結野もびっくりしてる様子で、いまはじめて先輩たちの存在に気づいたという感じだった。というか、みんなはいったいいつから…… 「……暴風の中を飛び出していった嵐子が心配だったから」  なんだか無表情な感じの石動先輩がぽつりと告げる。 「間宮とは一時休戦することにして、あんたたちを探すことにしたの。ちょうどそのとき、電車とバスを乗り継いで空港までやってきたみちる姉と葉山と出会って、いっしょに探してたら……川岸にいるあんたと嵐子を見つけたのよ」  みちる先生はいつもの抑揚のない表情で、辰吉はちょっとにやにやしながら俺たちを見下ろしている。そして間宮さんは、—— 「ハァジメテーのチュウ〜変態とチュウ〜アイギービュオウマイラーブ〜」  壊れた笑みを浮かべながら、謎の歌をうたっていた。  も、もしかして……見られちゃったのか? 「え、えっと……ち、違うんです! こ、これはただの人命救助で……か、川に落ちて溺れた俺を結野がたすけようとして、でも逆に溺れちゃって、そ、そんで俺が、あの……」  俺はおろおろしながら言う。混乱してるせいでうまく説明することができない。  そのとき——  石動先輩が、ふっふっふっと笑みを浮かべた。そして、 「間宮。勝負はあたしたちの勝ちみたいね」 「……は?」  間宮さんが先輩に顔を向ける。先輩は両腕を組み、どこか得意げな顔で、 「五日間勝負のことよ。その最後の一日で、あたしたちは目的を達成したわ。いまのブタロウと嵐子を見ればそれがわかるわよね?」 「なにを……言ってるの? 頭おかしくなった?」 「まだわからない? ブタロウが川で溺れたことも含めた一連の出来事、これこそが——」  先輩はびしっと間宮さんを指さし、 「嵐子の男性恐怖症を治療するカリキュラム——だったのよっ!」  と、自信満々に言い放った。 「…………」  間宮さんは唖然とした表情を浮かべたあと、 「あ、あなた……そんなわかりやすい嘘を信じる人間がいると思うの?」 「う、嘘じゃないわよっ!」 「美緒、さすがにそれは苦しいと思うぞ」  みちる先生が先輩の耳元でつぶやく。  すると、石動先輩は地団駄を踏むようにして、 「く……で、でも、嘘って言うのならあんたのついた嘘のほうがひどいじゃないっ!」 「なんのこと?」 「あたしとブタロウが付き合ってるとかいう話よっ! あんなあり得ない嘘で嵐子を騙しやがって! なんであたしがこんな変態と付き合わなきゃならないのよっ!」 「嘘? 騙した? どこにそんな証拠があるのよ」  しれっとした顔で言う間宮さん。だが—— 「証拠ならある」  そう言ったのはみちる先生だった。 「え……?」 「その証拠を見せてやろう」  みちる先生は数枚の写真をその場に出す。証拠っていったい……  間宮さんが大きく目を見開く。  その写真に写っていたのは、間宮さんと石動先輩。  間宮さんが先輩をマッサージしている姿、先輩の服を脱がしている姿、先輩を布団に横たえている姿などが、その写真に激写されていた。  間宮さんは愕然としながら、 「な……ど、どうしてこんな写真が……」 「ふむ。たまたまなのだが、あの日はちょうど奥の部屋にビデオカメラを置いていてな、しかもそれを回したまま忘れて帰ってしまったんだ。それで、美緒から君の陰謀のことを聞いて、もしかするとビデオカメラに君と美緒の姿が映っているのではないかと思ってさっき調べてみたら、この通り、はっきりと映っていたよ。このビデオカメラは映像を写真としてプリントアウトできる機能があるから、嵐子の誤解を解くために何枚か持ってきたんだ」 「あ、あの……みちる先生はどうしてあの部屋にビデオカメラなんか……」  尋ねると、みちる先生はすっと目を逸らす。……もしかするとこの人は毎日あの部屋にビデオカメラをセットしているのかもしれない。先輩の着替えとかを盗撮するために。誰かこの人を刑務所にぶちこんでください。 「由美……」  結野が大きく目を見開きながら、間宮さんを見つめる。 「あ……」  間宮さんは怯えたような表情を浮かべていた。 「やれやれ、やっと誤解が解けたか……でも、あんたってほんとにひどい奴よね」  と、石動先輩が冗談ではない怒りを滲ませながら言う。 「あなたたちじゃ嵐子は守れない? 嵐子はわたしが守る? ふざけんじゃないわよ。あんたの嘘のせいでどれだけ嵐子が苦しんだと思ってるの? 本当に嵐子のことを大切に思ってるのなら、こんなこと——」 「うるっっっっっっっさい————っっ!」  風音を弾き飛ばすような大声。その迫力に、石動先輩の言葉が止まった。 「わ、わたしだって! わたしだって、本当はあんなこと……嵐子を苦しめるようなことはしたくなかったわよ! でも、ああでもしないと、嵐子は……嵐子は……」  そこまで言って、間宮さんは右手で顔を覆う。  俺はぎょっとしてしまった。 「あ、嵐子は……ここでもっと苦しむことになるんじゃないかって……」  間宮さんは小刻みに肩を震わせながら、ぽろぽろと涙をこぼしていたのだ。 「そんなの嫌だから……あ、嵐子が苦しいのは、悲しいのは、嫌だから……だ、だか……ひぐっ……だから……」  号泣しながら言葉を落とす間宮さんを、俺たちは息を呑んで見つめていた。  そんな間宮さんに、結野がゆっくりと近づく。 「由美……」  間宮さんの体が、びくりと大きく震えた。 「嵐子……ごめんなさい。で、でも、わたし……」 「うん、わかってる。由美がわたしのことを真剣に考えていてくれたことは」  結野は優しい笑みを浮かべる。  そして、そっと息を吐くと、 「でも——」  間宮さんをまっすぐ見つめ、 「わたし……やっぱり転校はしない」 「…………」  結野は穏やかな口調で、 「由美の通う女子校なら、確かにわたしは傷つかないですむかもしれない」  と、間宮さんに告げる。  「だけどね、わたしは……わたしは男の人が怖いけど、でも、男の人のいない世界で生きたいとか、そんなふうに思っているわけじゃないの」  そこで、結野はちらりと俺に目を向ける。 「ごめん。由美が、わたしのことを思って言ってくれてるのはわかってる。それでも、わたしはここにいたい。ここにいるみんなといっしょにいたい」 「嵐子……」 「わたしはもう大丈夫。だから……由美も、もう我慢しないで」 「え?」 「葉山くんのこと……まだ好きなんでしょ?」  間宮さんが息を呑む。辰吉は大きく目を見開いていた。 「由美が葉山くんと別れたのは——わたしのせいよね?」 「そ、そんなこと……」 「ううん、いいの」  結野はゆっくりと首を横に振り、 「わたしが男性恐怖症になった原因の出来事を由美に話せるようになったのは、中学校を卒業してからだった。由美がわたしの前で葉山くんの話をしなくなったのは、その頃だったよね?」 「…………」 「それからすぐだった。由美が葉山くんと別れたって言ったのは」 「わ、わたし……」  間宮さんは声を震わせながら、 「中学生のとき嵐子を傷つけるような噂が流れて、それで嵐子がよくふさぎ込むようになって、いったいなにがあったんだろうってずっと思ってた。でも、無理に訊き出すと嵐子がつらいんじゃないかと思って、なにも訊かなかったの……」 「うん。それで、いつもいっしょにいてくれたよね」 「だけど……わたし、そんなときに辰吉くんに告白して付き合って……辰吉くんの話ばっかりして……嵐子がそのときどんなにつらかったのかまったくわかってなくて、嵐子の前で男の子の話ばっかりして……」  間宮さんは両目をつむる。 「そんなふうに思ったら……辰吉くんと付き合うとか、男の子と付き合うとか、考えられなくなって……」  俺は呆然としながら間宮さんの話を聞いていた。  間宮さんが辰吉と別れたのは——結野の過去が原因だったのか。  結野はそっと間宮さんの手を握る。 「由美は、昔からわたしのことを一番に考えてくれた……自分のことは後回しにして、いつもわたしのことばっかり……」 「…………」 「ありがとう。いまわたしがここでこうしていられるのは、由美のおかげよ」 「……あ、嵐子」 「わたし弱虫だし、寂しがり屋だし、すぐに泣いちゃうダメな子だけど——がんばるから。いっぱいがんばるから。いっぱいいっぱいがんばるから。由美に心配かけないように。ちょっとでも強くなれるように。だから……由美も自分の気持ちを大切にしてあげて」  結野はどこか頼もしく見える笑顔で間宮さんを見上げている。間宮さんは頬に涙の筋を残しながら結野を見つめている。ピークを過ぎたのか、それともただの気まぐれか、あれほど荒れ狂っていた暴風がいまは少し静まっていた。  やがて。  間宮さんはゆっくりと笑みを作る。 「……わかった」  それは、どこか安心したような笑顔だった。 「がんばれ。いっぱいがんばれ。わたしも……がんばるから。嵐子に負けないように」 「うんっ」  脳内でどういう連想をしたのかはよくわからないのだが、その間宮さんの笑顔を見たとき、ふと一つの小さな疑問が浮かんだ。どうして間宮さんは空港に向かう途中で石動先輩に電話したりしたんだろうか。あの電話がなければ、俺たちが空港に行くこともなかっただろうに。  もしかすると、間宮さんもどこかでこういう結末を望んでいたのかもしれない。だからあんな電話を——いや、間宮さんがどんなことを思ったのかなんて、間宮さんにしかわからないことだな。俺があれこれ推測しても無意味なことだ。  そして——  間宮さんは結野から離れ、辰吉に向き合った。辰吉の体がびくりと震える。 「あ、あの……えっと……」  辰吉の前に立つ間宮さんは、顔を真っ赤にしていた。胸の前で絡ませた両指をせわしなく動かし、うつむき加減で、 「い、いま話したのが……わたしが辰吉くんに連絡しなくなった本当の理由……」  と、つぶやくように言う。普段の落ちついた間宮さんとはまったく違った、不安そうで頼りなさそうで、それでも魅力的な——なんというか、恋する乙女の表情だと思った。 「辰吉くん、ごめん。それと……」  間宮さんは顎を震わせながら、決然と顔を上げる。  精一杯の気持ちを、そのまっすぐな瞳と育葉に込めて、 「わ、わたし、いまでも辰吉くんのことが好き。だから——もう一度付き合ってほしい」 「…………」  唇をきゅっと引き締め、真剣な顔を辰吉に向ける間宮さん。辰吉も問宮さんの切れ長の瞳をじっと見つめている。俺たちは息を呑みながらその場面を見守っていた。  しばらくして、辰吉は——  すっと間宮さんから顔を逸らした。 「……ごめん」  と、短く言う。 「え?」 「俺……自分がまだおまえのことを好きなのか、よくわからないんだ。だから……いますぐにおまえと縒《よ》りを戻すことはできない」 「…………」  間宮さんは呆然とした表情で辰吉を見ていた。  俺もけっこう驚いている。なんというか……いまの流れだと、辰吉と間宮さんが元の鞘に収まってハッピーエンド、みたいな感じを予想してたというか……  間宮さんはぷるぷる震えながら、 「ど、どうしても……ダメなの?」 「ああ。ごめん」 「そ、そう……ダメなんだ……そっかぁ……」  死神に取り憑かれたような顔をしながら、間宮さんは力なくうつむく。 「みちる姉……あの子、フラれちゃったみたいね」 「そうだな、フラれたようだな」  石動先輩とみちる先生がデリカシーゼロなつぶやきを漏らす。それを聞いた間宮さんの頬がひくりと震えた。そして——おもむろに地面にしゃがみ込む、 「ゆ……由美?」  間宮さんは膝を抱えてしゃがみながら、地面に人差し指で『の』の字を書いていた。半泣きで。 「………………ぐすっ……」 「ゆ、由美、大丈夫? 元気出して……」  気まずい空気が辺りを包む。なんだかまた風が強くなってきたような気がした。  しばらく地面に文字を書いていた間宮さんだったが—— 「……あきらめない」  ぽつりとつぶやく。 「わたし、まだあきらめないわ……せっかく嵐子が応援してくれたのに……一度フラれたくらいで……」  暗い顔でぶつぶつ言っていた間宮さんの表情に、 「そ、そうだわ……っ!」  パッと明かりがともる。  そして、間宮さんは急に元気よく立ち上がった。独白するように、 「いいこと思いついた……そうだ、こうすればいいのよ! こうすれば……」 「ゆ、由美?」 「あは……そうよ、こうすればいろんなことが一気に解決……」  結野はとても心配そうな顔で間宮さんを見つめていた。 「あ、あの……本当に大丈夫?」 「大丈夫っ! 大丈夫よ嵐子っ! わたし、こんなことぐらいであきらめないから!」  言って、間宮さんはぎゅーっと結野の体を抱きしめる。間宮さん、本当に大丈夫だろうか……心のネジがぶっ飛んでしまったんじゃ……  そのときだった—— 「あ……」  突然、結野が体をくの字に折る。 「あ、嵐子っ!?」  びっくりした声を上げる間宮さん。俺たちも慌てて駆け寄った。 「結野!? ど、どうしたんだ!? 気分でも……」 「タロー……」  結野は泣きそうな顔で俺を見つめ、 「あのね、えっと……ごめんなさい」 「へ? な、なにがだ?」 「な、なな、なんかね……緊張が解けたら、まとめてきちゃったというか……い、いっぱい触ったし触られたから、それが……だから……」  あの……結野さん? どうして拳を握りしめてるのですか? どうして右腕を振り上げてるのですか? ねえ、結野さん…… 「や、ややや、やっぱり……ややややっぱりまだ……」 「ゆ——」 「やっぱりまだこわいよおおおおおおおおおおおおおおおお————っっっ!」 「どひょああうああああああああああああああああああああ————っっっ!?」  結野の渾身の一撃が——俺の顔面に炸裂した。  驚くほど気持ちよくなっちゃった俺はうへいへいと壊滅的な笑みを浮かべながら背後に吹っ飛び、そして——再び川の中にダイブしちゃったのである。 「ああああああ!? た、太郎が気持ち悪い笑みを浮かべながら川を流されていくっ!」 「ちょ——ブ、ブタロウ! あ、あれやばいんじゃないの!?」 「うむ、確かに危険だな。本人はとても気持ちよさそうだが」 「さ、砂戸くんがすごい勢いで小さくなっていく……」 「こ、こわいいぃ……おとこのここわいよぉ……」 「はあ、はあ、はあ……き、きもちいーぴょん……」  哀れな変態が一人、激流に翻弄されながら恍惚の笑みを浮かべていた。  それから数時間後——間宮さんは欠航から回復した飛行機に乗り、地元に帰っていった。結野をこちらに残して。帰り際の間宮さんはなんだか晴れやかな顔をしていて、それがとても印象的だった。あ、ちなみに俺はあのあと無事川から救い出されました。  間宮さんが招いた結野の転校騒ぎも収まり、俺たちの生活は普段通りに戻った。普段通りの変態的な日々に。石動先輩にいじめられたり、結野に殴られたり、そういう毎日。  そして、ハチャメチャだった夏休みが終わり——新しい学期がはじまった。 「今日から二学期か……」  教室の引き戸を開ける  久しぶりの教室。久しぶりのクラスメイト。ちょっと懐かしい気分になってしまう。  始業時間ギリギリに登校するのは嫌だからといつも俺より一本早い電車で来ている辰吉は、すでに自分の席に座っていた。  俺は辰吉の一つ後ろにある自分の席に腰を下ろしながら、 「よお、久しぶり」 「なに言ってんだ。ちょっと前に会ったばかりだろ」 「まあそうだけど、なんとなくな」  と、俺は笑いながら言う。  ちらり、と後ろのほうの席に目を向けると——そこには結野がいる。  俺の視線に気づいた結野は、にこっとかわいらしい笑顔を浮かべてくれた。 「…………」  その笑顔を見た瞬間、なんか心臓がドキドキしてしまった。  いったいなんだろう、これは……  チャイムが鳴り、担任のマッチョ中山が暑苦しい筋肉をまといながら教室に入ってくる。 「長い夏休みだったが、君たちはどう過ごしたかな? ちなみに僕はアメリカに筋肉修行に行っておりました。まあそれはいいとして、突然だが転校生を紹介する。というわけで、みんなでスクワットでもしながら転校生を迎えようじゃないか! ハッハッハッ! マッスル!」  胸筋をピクピクさせながら、中山は言う。寒い筋肉ジョークはいつも通りみんな無視。 「あー……では、入ってきなさい」 「はい」  涼やかな声が教室に響く。  まっすぐ背筋を伸ばし、凛とした表情で教室に入ってきたのは、顔立ちの整った長身の女子。教室にいる男子たちがどよめきと歓喜の声を上げる。  その転校生の姿を見た俺と辰吉は——あまりの驚きにガタガタッと机を揺らした。  ばっと後ろを振り返ると、結野がいたずらっぽく笑っている。  そのとき俺は思い出していた。あのとき彼女が口にした言葉—— 『いいこと思いついた……そうだ、こうすればいいのよ! こうすれば……』  ま、まさか、あの言葉は……  転校生の女子は毅然とした表情で教室を見回してから、 「こんにちは。今日からこの学校に転校してきた——間宮由美です」  言って、真夏の青空みたいに晴れやかな笑顔を浮かべたのだった。 あとがき  あとがきを書こうとしたら、なぜか急に昔のことを思い出しました。それは小学生の頃のこと。当時、親が買ってきた衣服の中に、胸にでっかく『H』と刺繍がされた長袖の服がありました。それを何度か学校に着ていってると、僕はいつしか同級生たちに『エッチマン』と呼ばれるようになっていました。エッチマンのテーマソングまで作られてしまいました。僕はその服を着て学校に行くのがすごく嫌で……い、嫌で嫌で……ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ! トラウマスイッチON! そしてOFF!  どうも、変態作家の松野秋鳴《まつのあきなり》です。『えむえむっ!』の第三巻、お買い上げありがとうございます! えっ、まだ買ってないし買う気もねえ? そんなこと言わないで……  ですがマジメな話、六〇九円(この本の値段です!)というのは、MF文庫Jのメイン購買層である中高生さんにとってはすごい大金ですよね。いえ……中高生さんだけではなく、大人にとっても六〇九円というのは決して安い金額ではありません。ちなみに僕は二十歳《はたち》を過ぎていたのに全財産が五十七円しかなかった時期もありました。「うわっ、ダメ人間だこいつ! 死ねばいいのにっ!」とか思っちゃった人はいますか? 残念ながら否定はできません。  と、とにかくですね、僕はですね、この本を買ってくださったあなたにせめて値段分ぐらいは楽しんでいただけたら、それに勝る喜びはないということを言いたかったわけですよ。変態でダメ人間でエッチマンな僕ですが、本当にそう思っているわけです。読者様に楽しんでいただけるよう、これからもがんばりますので、よろしくお願いいたします!  謝辞です。今回もすんばらしいイラストを描いてくださったQP:flapperの小原《おはら》トメ太《た》様とさくら小春《こはる》様、ありがとうございました。表紙も悶絶ものですが、それをぺらっと一枚めくったところにある扉絵は萌え死必然の青春暴走マシンガンでございます(意味不明)。  担当のS様、編集長のM様、いつもお世話になっております。装丁を担当してくださった松井様、校正様、営業の皆様方、ありがとうございます。  そして、最大級の感謝はもちろん読者様に! ありがとうございました!  では、次巻でお会いできればうれしいです。 二○〇七年 九月 松野秋鳴 2007年10月31日 初版第一刷発行 2008/10/23 作成 ルビは一部のみ